滝登り         芝山 靖二





 徳島の南の海岸には多くのマリンスポーツがあります。サーフィン,スキューバーダイビング,カヤック,等々。それに山にも,大変面白いスポーツがありました。
 TOGAWAレクレーションサービス(阿南市黒津地町)が提供する轟九十九滝の滝登りである。まだ猛暑が続いていたお盆の16日に甥っ子,とその友達の若者二人と行ってきた。
 日和佐の道の駅にその日参加する人達と7時に落ち合い,いよいよ轟に向かって出発である。
 舞台は大小さまざまな滝が連なる海陽町平井の轟九十九滝。日本の滝百選にも選ばれた名滝だ。ミネラルウォーターのような(いやそれ以上かも知れない。あまりにきれいすぎて,滝で段になっていることもあって,魚は一匹もいない)水がしぶきを上げ,ひんやりした空気が辺りを覆う。どんなに暑い日に行っても涼しきことは請け合う。
 コースの途中には,滝が天井から流れ込む洞窟あり,ウォータースライダーあり,高さ7メートルの岩場からコバルトブルーの滝つぼに飛び込むダイブポイントあり,まったく飽きさせない。心の底から童心に帰って,日頃のストレスが一気に飛んでいく感じである。
 身につける装備はなかなか大変である。まず海水パンツ,次にウエットスーツ(これを着ないとどんなに暑い日でも寒い),半ズボン,ジャンバー,ライフジャケット,それにヘルメット,手袋,沢登り用靴,安全帯。これら自分で持っていないものは,レンタルできる。
 興味のある方,来年の夏一番暑い時に試してみてください。

“ザワワ ザワワ ザワワ”
              松林 幸二郎

 “ザワワ ザワワ ザワワ ――”目の前に風に揺れるのは,広いサトウキビ畑ではなくて,アルプスの裾に広がるアルムの刈り取られる前の牧草です。気分の良いときのHさんからの口元からは,決まって大好きな唄のメロディーがこぼれでてきます。全盲のHさんの乗る車椅子を押す私には,首を心地よく揺らす Hさんの今の心の状態が直に伝わってきて,私も仕合せな気分を分けてもらっています。
 ABBAの大ファンであるHさんに,最近日本の友人から送られてきたMD“新垣勉 ベストアルバム”を初めてイヤホーンで聴かしたとき,Hさんは稲妻に打たれたかのような表情をいたしました。実は私は,MDが送られてくるまで“新垣勉”という歌手を知りませんでしたので,彼の経歴を読んで深い感銘を受けました。
 新垣勉さんは,沖縄で,米軍兵士の父と日本人の母との間に生まれ,間もなく全盲となりました。その後,両親は離婚し,父親は母子を捨て帰国してしまいます。祖母に育てられますが,自らの境遇と不幸に絶望して自殺を図ります。そして,祖母も亡くし,天涯孤独の身となってしまいますが,ラジオから流れてきた賛美歌に心を打たれ,声楽家を目指すとともに,こんな自分をも愛してやまない神を信じ,そして,その神の愛を伝えたくて,死にものぐるいで勉強し副牧師になりました。
 メキシコ系の父から受け継いだラテン系の声と信仰をバネに,声楽家として召され,『さとうきび畑』で初のCDを発売しましたが,苦しい立場にいる人々のみならず,その後,心から絞り出すような素晴らしい歌声と,苦難と逆境を通じて培われた優しさとユーモアをもって,苦しい立場にいる人々のみならず,多くの日本人を慰め励ましているとのことです。
 全盲のHさんには,全盲のことは決して言及せず,かれが普通に見えるひとであるかのように話す私は,Hさんの魂を揺らした“新垣勉”は,実はHさん同様全盲であることは知らせていません。しかし,Hさんは,きっと鋭い感受性で,他のシンガーにはないものを感じ取ったに違いありません。
 “ザワワ,ザワワ,ザワワーー”今日も気持ち良さそうなHさんの歌声が,アルムを這ってきた爽やかな風に運ばれていきます。そんなとき,オンリーワンである,Hさんの幸せが本物になるように願わずにいられなかった午後の散策でした。
 “私の歌が,少しでも皆様の励みや勇気となり,私の歌で,人や自分を愛すること,許すこと,そして,一人一人が掛け買いのない存在だと感じて頂くことできたら幸いです。 人と競い合ってナンバーワンを目指すのではなく,一人一人の輝きを持った“オンリーワン”の人生を大切に!” 新垣 勉

曲水の宴をたずねて(1)  山田 善仁

 1987年4月10日に,王羲之(おうぎし)を師と仰ぐ日中の書道家41名が,鵞鳥(がちょう)にまつわる名勝蘭亭(らんてい)に集い,古式ゆかしく日中最初の「曲水(きょくすい)の宴(えん)」を会し,両国の絆を深めた事を日本テレビで当時放映され,ファンはテレビ画面に釘付けであった。
 今を遡ること1655年,東晋は永和(えいわ)9年(353)3月3日,江南は会稽(かいけい)山陰の地,名勝蘭亭に集った。
 集った人物は,書聖と言われる右将軍王羲之を筆頭に,王一族と清遊(せいゆう)同志41人(一説に42人)である。
 南朝の貴族王家は,建康(けんこう)(後漢末の建業,唐の揚州)に於いて東晋国を興した司馬睿(えい)(元帝)を補佐した東晋の元勲王導(おうどう)の時代より更に名家を欲しいままにしている。
 王羲之,あざなは逸少(いつしょう)。父,王曠(おうこう)は西晋末に淮南(わいなん)大守となった人で,司馬睿に対して,江南に渡って政権を樹立すべき事を首唱したと言われる。祖父,王正(おうせい)は西晋で尚書郎となった。王正の甥に東晋の丞相となった王導がいた。王一族は,西晋,東晋の政府に仕える人達ばかりであった。

すべての思いを家族に 49
人とのお付き合い
(キャッチボール)
      田上 豊

 私達は新しい人との関わりは優しく気を付けてお相手をします。即ち相手が受けやすいボールを投げています。相手を思いやっての事です。相手も受けやすいボールを投げてくるのです。その内馴れてくるのです。これが暴投に成ったりするのです。思いやりの集中力が欠けてくるのです。
 何で,こんな簡単な問題が解決しないんだ? 暴投も最初ゴメンと謝っていたのにとか思う様になるのです。最初は相手を思いやっていたのに段々と自分の考えを出すのです。
 楽しいはずが面白く無くなるのです。でも,毎日誰かとお付き合いをしているのです。
 嫌な人も,縁がある人なのです。神様が私を試しているのです。お付き合いの苦手な人もいるのです。そのような人とも楽しくお付き合いをするように練習もしないとね。
 毎日記録して,自分に言い聞かせるのです。反省するのです。
 町内会10人で会議をすると10人10色の個性がでます。ケンカすれば終わりです。
 キリストは愛を唱えています。愛は炎となる場合が有ります。炎は火傷をする場合も有ります。焚き火は,あたれば暖かくなります。愛も炎も上手に使おう。
 キリストの愛は正義です。愛しているからと言って相手の心に深く入り過ぎるのです。
 何んでも許すことが愛だと思っているのです。愛は与える物なのです。頂く事に置くと,凄く我が儘になるのです。でも,誰かを愛していると心が温かくなるよね。