三木家古文書について(その5)
               三木 信夫

 以前に「三木家古文書について(その1)」で三木の苗字について触れましたが,天皇からの正規の文書の場合は,次の文書のように「三木」ではなく,「忌部」として記載される。これは南北朝時代,北朝の光明天皇から三木重村に与えた叙任書(1345年)で,「太平記」には三木で記載されているが,このように正規文書となると苗字は正確に記載されるのである。


(内容訳)
上卿(しょうけい)権(ごん)大納言
  康永四年九月六日    宣 旨 
   忌 部(いんべ) 重 村
 宣 任 左 兵 衛 尉(よろしく,「さひょうえのじょう」ににんずべし)
   源 康 継
 宣 任 右 馬 允(よろしく,「うめのじょう」ににんずべし)
   蔵人(くろうど)東宮学士藤原兼綱 奉

 蔵人が書いて,上卿が宣する。一通の口宣(くぜん)案(宿紙=再生紙)に二名を連名叙任するのは異例である。当時官職名を称するためには,朝廷からこのように口宣案を頂くのであった。これら天皇からの綸旨は偽造を防ぐ為,宿紙を使用している。(注)上卿=中納言以上の公卿をいう,当時権大納言は八人おり誰が宣したか不明。蔵人=天皇に近侍する蔵人所の職員。

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忌部の話 二十七 「麁布貢進」その二
               尾野 益大

 阿波忌部の末裔・三木家は大正天皇に続き,第百二十四代昭和天皇の大嘗祭にも麁布を貢進した。
 1928(昭和3年)4月13,14の両日,麻を旧木屋平村貢から城の丸権現という山に続く途中の台地・通称「八石」にまきつけ,地元の青年10人が手入れなどをして管理した。8月6日に抜麻式をして,その丈余の麻は三ツ木八幡神社境内で皮をはいだ。作業は,高さ約2メートルの麻風呂に湯浸しにして煮た後,むしろに巻いて一定時間おいて発酵させ,麻舟に漬けて皮をはいでいくものだ。湯浸しの温度と時間,発酵の程度によって麻の良否が決まるため,作業は大変苦労したといわれる。
 麻は9月10日,川井の日吉神社拝殿で地元の女子青年8人が紡いだ。徳島県がその道の経験者の女性を滋賀県から指導員として招いている。紡いだ麻糸は9月21日,自動車で旧山瀬町の忌部神社に運搬し,特別に造営した織殿で旧山瀬町の女子青年6人が織り上げた。
 麻を織る女性を「織女(おりめ)」と呼んだ。朝,神社に行くとまず風呂に入り,神主がお祓いをして織殿に入った。期間中,在郷軍人や青年団の人たちが毎晩,警備をする厳重さだった。
 10月23日,麁布織上式を行い,獅子舞や屋台も出て大賑わいの山瀬駅を午後2時発の汽車で徳島駅に送り,県庁に奉送した。翌日1日間を一般縦覧の日にあて,24日夜,小松島港を出て上洛。京都大宮御所へ奉納。11月14日の大嘗祭に無事,麁布貢進を果たした。三木家の奉仕者は大正天皇のときと同じ御殿人・宗治郎氏だった。
 今回は大礼使から調度部長が派遣されたこともあり,大正天皇の麁布貢進を上回る盛大さだったといわれる。
 なお,貢進した麻布の一部は当時,川島町長だった宗治郎氏が川島高校(旧川島中学校)に寄贈。東郷平八郎海軍大将・元帥に揮毫を依頼。校訓の「至誠無息」と書かれた全国唯一の元帥直筆の校旗を同校は今も保管している。当時,東郷元帥は神格化されて書を得ることは困難とされており,それを可能にしたのは宗治郎と親しかった三ツ木出身の漢学者で明治天皇御記の編集をした山田立夫(貢村)氏の働きかけがあったからだった。東郷元帥は日露戦争で連合艦隊司令長官となり日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させた。後,東宮御学問所総裁を歴任している。

曲水の宴をたずねて(6)  山田 善仁

 「蘭亭曲水の宴」はこうである。
 蘭亭に於いて,初めに厄(やく)を払い汚れを除く禊(みそぎ)を行う。次に鵞鳥(がちょう)が遊泳し,岸辺には蘭が植えられた曲水の池で,詩会(うたかい)が始められた。酒が注がれた觴(さかずき)を曲水に浮かべ,流れの淀みに,或いは蘭の葉に阻まれた觴が自分の前に流れ来ると呑み,そこで詩を一首。即座に出来なければ罰として,もう一度觴を口にする。
 「蘭亭の会」に集まった人は41人(一説に42人)。
 「世説新語」の「臨河の序」には,故に時人を列序し,其の述ぶる所を録す。右将軍の司馬なる太原の孫承公ら26人,詩を賦(ふ)すること次のごとし。前の余姚(よよう)の令なる会稽の謝勝ら15人,詩を賦する能(あた)わず,罰酒各々3斗なり。とある。
 宋の張(ちょうこう)の「雲谷雑記」巻一に,集った人の詳細が記されている。
 予嘗(かつ)て蘭亭の石刻一巻を得たり。首(はじ)めに羲之(ぎし)の序文を列す。次には則ち諸人の詩,末には孫綽の後序あり。その詩は四言二十二首,五言二十六首,羲之より而下,凡て42人なり。両篇を成す者は11人。右将軍王羲之,瑯邪(ろうや)王友謝安,司徒左西属謝万,左司馬孫綽,行参軍徐豊之,前の余杭令孫統,前の永興令王彬之,王之,王肅之,王徽之,陳郡の袁喬之。一篇を成す者は15人。散騎常侍雲(ちどん),行参軍王豊之,前の上虞令華茂,潁川(えいせん)の友(ゆゆう),鎮軍司馬虞説(ぐえつ),郡の功曹魏滂(ぎぼう),郡の五官謝繹(しゃえき),潁川の蘊(ゆうん),行参軍曹茂之,徐州の西平曹華,陽(けいよう)の柏偉,王玄之,王蘊之(おううんし),王渙之,前の中軍参軍孫嗣(そんし)。16人は詩成らず。各々罰酒は三(こう)。侍郎謝瑰(しゃかい),鎮国大将軍の掾卞迪(べんゆう),行参軍丘旄(きゅうぼう),王献之,行参軍揚模(ようも),参軍孔熾(こうし),参軍劉密,山陰令虞谷(ぐこく),府の功曹労夷(ろうい),府の主簿后綿(こうめん),前の長岑(ちょうしん)令華耆(かき),府の主簿任(にんぎょう),前の余杭令謝藤,任城の呂系,任城の呂本,彭城の曹煙(そういん)。
 諸詩及び後序は,文多ければ載(の)せず。姑(しばら)く作者の姓名を此に記す。覧(み)る者,当世の一觴一詠(いっしょういちえい)(大きなさかずきで酒を飲み,詩を賦す)の楽しみを知るに庶(ちか)しと云う。
 これによれば,謝安,謝万,雲,孫綽といった名士を中心に,その他大勢の中堅官僚,それに羲之の子が参加している。
 羲之は,その地における清談の中心,サロンの中心であったわけである。