三木家古文書について(その6)
               三木 信夫

 鎌倉幕府末期から滅亡,更に南北朝へと,世の中が大変混乱した時代の頃の三木家古文書について解説をする。元弘元年(1331年)後醍醐天皇が鎌倉の北条氏討伐に踏み切って失敗し(元弘の変),天皇は笠置山に逃れたが捕らえられ翌年隠岐に配流(はいる)された。このため幕府は同年,光厳(こうごん)天皇を擁立され,翌年の元弘二年(正慶元年)父君の後伏見上皇が指揮をとられ,大嘗会が行われている。これは光厳天皇大嘗会に関する正慶元年八月「荒妙の御衣使」勅使派遣の太政官符案(写真参照)や,由加物に関する同年九月と十月の院宣案二通により,短期在位(1331〜1333)とはいえ光厳天皇は正式に即位しているのである。

 参考)
皇室略系図(該当青書き)

インフルエンザ     天羽 達郎

 今年のインフルエンザの流行は凄まじかった。昨年は1シーズンに3,4人の患者しか来なかったのに,今年は1日に3,4人が来た。多い日は6人もあった。12月半ば過ぎから始まり2月の第3週目頃までA型が猛威が振るい,それが下火になると今度はB型がでてきていた。桑野小学校は壊滅状態で,4学年が学級閉鎖になった。お彼岸前にやっと登下校の子供の姿を見るようになった。

 流感の猛威もそろそろ終わるらん
     下校の子供がちらほら見ゆる

おひな様なんですけど。 島川 文代

昨日の「工作教室」で作った,紙コップの(サンプル用)おひな様。


・・・ん?

・・・あれれ?

「ぼくの勝ち〜!!」

机の上に置いてたら,息子達に「紙相撲」にして遊ばれてましたよ。
そうか。そう見えたのね・・・。
それ,一応おひなさまなんですけど。

曲水の宴をたずねて(7)  山田 善仁

 王羲之が書した「蘭亭序」はこうである。
 「永和(えいわ)9年,癸丑(きちゅう)の歳(とし),暮春3月の初め,会稽山陰の蘭亭に会す。始めに禊(みそぎ)の祭事を行う。群賢はことごとく至り,老いも若きも総て集まった。此の地には高い山峻(けわ)しい嶺(みね),茂った林や長い竹が有る。又,清らかな流れと,たぎる早瀬が有り,それは左右に照り映えている。その流れを引いて,觴(さかずき)を流す曲水と為し,人々はそのほとりに列(なら)んで座った。琴や笛の賑やかさは無いけれども,酒を飲み詩を賦して,懐(おも)いを伸びやかにするには十分で有る。
 此の日は,天は郎(ほが)らかに晴れ渡り気は澄みきって,春風が穏やかに吹き渡っていた。仰いでは限り無い宇宙の大いなるを観(み),俯(ふ)しては盛んなる万物を視(み),かくして目を遊ばせ懐いを騁(は)せ,目や耳を十分に娯(たの)しませる事が出来,誠に楽しい事で有った。
 そもそも,人がそれぞれに一生を過ごす場合,心に抱(いだ)く懐いを一室の中で語り合う事も有ろうし,又,何かに身をまかせ,形骸を忘れて過ごす事も有ろう。その生き方は色々で有り,静と動と同じでは無いけれど,それぞれに自分の境遇を喜び,暫(しばら)く思うように行っている時には,心地よく満足して,老いが我が身に迫ろうとしている事も忘れている。しかし,している事にやがて飽(あ)きが来て,気持ちもそれに連れて遷ってゆくと,感慨がやがて涌いてくる。さきほど欣(よろこ)んでいた事は,俯仰(ふぎょう)の間に,過去の事と為ってしまい,とりわけ此の事で物懐(ものおも)いを起こさずにはいられない。命の長い者も短い者も自然の変化のままに,終(つい)には命尽きてしまうからには,尚更で有る。
 古人は云う「死と生は人生の大事である」と。誠にどうしてそれを痛まずにおれようか。昔の人がそのように感じた,その理由を覧る度に,私も全く同じ事を思った。そうして古人の文章を読んでは,これまで嘆(なげ)き悼(いた)まない事は無かったが,それを懐(こころ)に喩(さと)る処まではいかなかった。しかし今や,死と生を同じと見るのは虚誕であり,長寿と夭折(ようせつ)とを斉(ひと)しいとするのは妄(いつわ)りで有る事が良くわかった。
 後世の人々が今の我々を視るのも,ちょうど今の我々が昔の人々を視るのと同じで有ろう。悲しい事だ。故に,今日,集まった人々の名を書き連ね,その作った詩を記録しておく。世の中は異なっても,懐いを起こさせる種となるものは,結局は一つで有る。したがって,後世この文を覧る者も,心に感じるものが有るに違いない。」と書す。