三木家古文書について(その8)
               三木 信夫

 阿波忌部直系の三木家が代々深く関係を持ったのが,御殿人として天皇一世一度の大嘗祭に麁服(あらたえ)を貢進する事でした。この麁服を製作する人を御衣人(みぞびと)といい,麁服の製作を統括し麁服と共に京師(けいし)へ同道して参内(さんだい)する人を御殿人(みあらかんど)という。この麁服奉仕者を総称して「御衣御殿人(みぞみあらかんど)」という。
 大嘗会の阿波忌部の役割としての阿波国司からの伝達は,代表の三木家宛に官宣旨・太政官符の写し等を付けて伝達し,下命を受けた忌部一族が,三木家を中心に結束して事に当たり役割を果していた事が,三木家の古文書から伺える。
 次の正慶元年(1332年)十二月「神祇官勅使下文(くだしぶみ)」(写真参照)は,先に説明した(その7参照)同年十一月「阿波国御衣御殿人契約状」の翌月に,三木右近允長村に下した公文書である。当時,氏村の父長村は,麻植忌部集団の長者の職にあり,大きな勢力を有していた。翌年の元弘三年十一月付「阿波国御衣御殿人契約状」には,長者長村として氏村と共に名を連ねている。
 この文書は,三木家が大昔から代々勅使御殿人であり,忌部氏なることを証明するものの一つである。
 内容は,「三木右近允(うこんのじょう)の家は,大昔の代から大嘗会に天皇の命による御殿人(みあらかんど)として奉仕するのであるから,右近允は麻植忌部の長者として濫妨(らんぼう)しないように」と,種野山代官と勅使の連署を以って下した文書である。


<内容>

下(くだす) 勅使御殿人三木右近允事(ちょくし」みあらかんど」みきうこんのじょう」のこと」)
右 於彼右近允者(みぎ」かの」うこんのじょうにおいては」)
自往古為勅使御殿人(おうこより」ちょくしみあらかんど」となして」)
致課役之上者(かえきを」いたすのうえは」)
向後更不可致長者等濫妨之由(こうごさらに」ちょうじゃらの」らんぼうを」いたすべからざるのよし」)
勅使殿被仰下候也(ちょくしどの」おおせくだされ」そうろうなり」)
仍執達如件(よってしったつ」くだんのごとし」)
正慶(しょうぎょう)元年十二月一日
               御代官(花押)
勅使神祇権少副忌部(ちょくし」じんぎ」ごんしよう」いんべ」)(花押)

新型インフルエンザの流行は一段落
               天羽 達郎

 今回流行したインフルエンザは,始めのうちは「豚インフルエンザ」といっていたが,いつの間にか「新型インフルエンザ」と呼ぶ様になった。恐らく養豚業界からなんらかのクレームが付いたのだろう。我が親愛なるカナダ人の英語教師は豚インフルエンザのことをSwine fluといい,彼のおやじさんは豚を飼っているので,そんな言い方をされると豚が売れなくて困る。迷惑だといっていた。おそらくそんなような事情からだろう。大騒ぎしたわりには大流行には至らなかった。毒性が弱かったらしく,死亡者は大抵途上国の不潔な環境のなかで発生した。
 しかしお陰でボーイスカウトの夏のキャンプが相次いで中止になった。今年は香川で8月8日(土)より始まる四国大会,8月1日(土)には全国のヴェンチャースカウトが集まり鳴門の第一番札所霊山寺からスタートする四国八十八ヵ所巡り,これも中止となった。これには私が救護班を立ち上げ,看護師2人を伴って何日もず〜っと付き添って歩かなければならなかったのだが,これがなくなった。正直ほっとしましたねぇ〜。私が病院を留守にしている間,大学から代診医を確保しなければならないのだが,医師不足でそれができないのだ。こんなところにも医師不足が影響している。阿南地区では阿南中央病院が医師を大学に引き上げられ,夜間の救急診療をすることができなくなった。そこで我々阿南医師会員が交替でそれを在宅でやっている。私の場合は場所柄在宅は不可能なので月1回阿南中央病院で夜間診療をやっている。原則70歳未満の会員は全員責任を持ってこれにあたることになっているのだが,中には不届きものがいて,やらないってさ。医師の責任をどう考えているのかねぇ。

短歌     天香具山神社宮司 橘 豊咲

 前略 昨日はお電話をかけていただき有難うございました。
 後日,阿波古事記研究会から発刊される機関紙に小生の短歌を掲載してもらえることで,追加で投稿しますので,ご判断の上載せていただくと,今後の作句に励むことができます。

 天岩戸立岩神社
○ 天照らす 皇神(すめかみ)おはす 阿波の国
      神威照徹(しんいしょうてつ) 立岩の神
○ 阿波の国 立岩に坐(ま)す 皇神の
      霊力(れいりょく)受けて 恐(おそ)れ戦(おのの)く
 開元祭の当日が想い出されます(平成9年)

○ 阿波の国 終日(ひねもす)神は 見ておはす
      民(たみ)の長生(いのち)と 政(まつり)見守(みまも)る
 平成21年3月29日阿南市長生町八桙神社にて

 尚,平成9年7月13日,杉山市天山町天山神社境内に歌碑の除幕式がありました。(高さは等身)
      発起人 天山町 白石温幸
      大和香具山氏子世話人故福本博司

 歌碑 ふるさと 天山
 みどりゆたかなふるさとは
 神の宿りし天山よ
 はるか香具山望みつつ
 いざ手をつながん友の会   白石温幸 作

 歌碑
 神々の 鎮(しず)まりおはす とこしえに
 天の香具山 春を迎ふる
   大和国 天香具山神社宮司 橘香林(こうりん) 作

 歌碑
 広大威神力
 天山神社拝して経,弐拾年 平成9年元旦

 福寿海無量
 天香久山麓 責任役人 福本博治

 注 平成8年私が宮司に拝命になった後,天香久山神社の名誉権禰宜として在籍
 平成9年天岩戸立岩神社開元祭参列後,私単身,白石氏外数名の諸氏と杉山におもむき,白石宅に一泊の後,天山神社参拝。

 追伸
○ 天照らす 皇大神の おはし坐す
      阿波の元山 有難き哉(かな)

 天羽会長に礼状のはがきを出した折の歌
○ 八桙(やちほこ)の神は日日(にちにち)見そなはす
      阿波の民等(たみら)に幸(さち)多(おお)かれと

 香林(こうりん)(S35年俳号香林と名付けてもらいました。畝傍俳句主宰山本百申氏)

障害者が障害者用トイレを使うとは限らない
               村上 哲史

 いきなりですが,ボクは障害者用トイレにはほとんど入ったことがありません。どうしても大便がしたくなった時には入りますが,小用を足す時は普通に男性用トイレに入ります。別に見栄を張っているわけでも何でもなく,そうする方が用を足しやすいからです。
 最初にボクの体の状態を説明すると,四肢麻痺で車いすに乗っていますが両足と左手はかろうじて動くので,左手で手すり等を持ち,踏ん張って立ち上がることができます。立ち上がれば小便器にもたれかかって体を安定させた後,左手を手すりから離してズボンの前の部分だけを下ろして用を足します。一方,大便器だけしかない障害者用トイレを使うと,まず体をくねらせながらパンツを膝近くまで下ろした後,体を半回転させて便座に移り,用を足した後これの逆をしなければなりません。この一連の動作を不自由な左手一本だけでしなければいけないので大変な労力と何倍も時間がかかってしまいます。ですから小用の時は障害者用トイレに入ることはありません。
 なぜこんなことを書いたかというと,車いすのボクが男性用トイレに入ろうとすると「障害者用トイレは向こうだよ」と教えてくれる人が必ずいるからです。「車いすの方は障害者用トイレを使うもの」と思いこんでいるんでしょうね。
 介助に成れているはずのボランティアさんでもそうです。「トイレに連れて行って」と言うと,必ず障害者用トイレに連れて行こうとします。ボクが「男性用トイレがいい」と言うと,必ず「何で」と聞き返します。ボクは見た目かなり重度なので「介助してあげなければ何もできない」ように見えるんでしょうね。あるいは「遠慮している」と思うのかも。できることなら,そこで,なぜ障害者用トイレに入らないのかをきちんと説明したいところですが,ボクには言語障害というやっかいなものがあって,言葉がなかなか伝わらない。だから,とりあえず「大丈夫だから」とだけを伝えて男性用トイレに入るのですが,ほとんどのボランティアさんは「ほんとに大丈夫?」と心配そうにずっと見ています。
 みんなボクのことを気遣って言ってくれているのは分かってます。それに障害者の多くは障害者用トイレを使っているわけですし,障害者用トイレがなければ困る方もたくさんいます。でもボクは普通の男性用小便器の方が使い勝手がいいんです。ほんのささやかな主張です。