徳島マラソン完走   芝山 靖二

 今年も徳島マラソンに参加した。海部川マラソンリタイヤの原因の足の痛みはまだ完全ではなく,練習も思うようにはいかなかったが,当日ははやる気持ちを抑えながら「鷲の門」へ行った。
 去年の第1回は大変盛り上がって,予想以上の参加者になった。2回目は1回目よりは参加者が減ると思っていたが,1割ほど多い4402人の参加となった。
 全国に1000近くのマラソン大会があるが,月刊誌「ランナーズ」の人気投票で徳島マラソンは2,3番とのことである。
 これは知事が大変力を入れて,皆が頑張っているのは勿論だが,徳島には遍路文化で培った「お接待」の文化があり,又阿波踊りで素人の踊り子を皆で応援する風習もあります。街中のコースはほとんどない堤防コースで42キロ途切れることなく応援してくれています。
 このため完走率は95.5と言う,他の大会では考えられない完走率だそうです。
 私はお蔭さまで今回は2771位,5時間50分49秒,制限時間7時間で6時間を切れたことが本当に嬉しかった。
 第1回目を60歳で参加 「70歳まで10年連続参加して,記録を落とさない!」
 これを目標に頑張るつもりです。

すべての思いを家族に 57
自分を変える
        田上 豊

 悩みや,困ったことを抱えていませんか? 自分に対する相手は困ったり悩んだりしていません。反対方向に化学変化さしているのは,こちらの心です。犠牲者,被害者だと思っているのは自分なのです。
 私達自分は正しい者と思いすぎています。家族を自分の思い通りにしたいと文句を言っているのです。相手を変えることは出来ないのです。自分の受け止め方を変えるより他ないのです。自分が我慢をすると躰には悪いのです。感謝の種を探すのです。
 平成21年,すべての思いを家族にも大きな変換期に来ているのではないでしょうか。家族の在り方を考える時です。
 問題が起こると時はその合流点は感謝があるのです。
 雨が山の頂上に降ります。分水嶺です。どちらにでも流れるのです。この分水嶺これを瞬間的振り分けているのは自分の心です。自分は生まれ変われるのです。
 家族でも違いがあるのです。運命共同体でも個々の人生があるのです。相手との違いを認めよう。

Influenceする新型インフルエンザ
               相原 雄二

 メキシコや米国で発生した新型インフルエンザが海を越え日本にも感染者が出ました。毒性が強くないとはいえ,海外では亡くなった人も報道されています。遠い海外の出来事があっという間に多くの国々に広がることを見聞するに,良くも悪くも,国籍こそ違うものの同じグローバル号に乗り合わせた相互依存のネットワークにいる一員ということを知らされました。
 ところでわが家でも,このインフルエンザには感染こそしていません(?)が,こんな田舎にいても影響(インフルエンス)が出ることをあらためて気付きました。
 小六の娘が,奈良京都大阪方面へ5月17日〜18日と,修学旅行を予定しておりました。前日の5月16日の午後3時30分頃,校長より電話が入り,市の教育長,次長さんが来て頂き,明日の修学旅行の件で協議しているので,保護者代表(PTA)としてすぐ来て下さいとのこと。教頭,担任教諭の6名での結論は,コースを吟味しながら予定通り行かせることに決まりました。
 その時点で神戸での感染者が出たニュースが入っており,教育委員会も学校側も神経質になるのは当然のことでしょう。保護者としては,子供にとってなにより楽しい修学旅行,その反面,もしかしてという心配は当然ありました。が,コース変更し,感染地を避けて,手洗い,うがい,マスク等々,ある意味緊張感を持って将来への人生研修が出来,よい旅行,思い出作りができ,まさに千載一遇のチャンスであると校長先生の肩を押しました。
 その日の夜(旅行前日)午後10時過ぎ,また校長先生より電話が入り,「会長さん,旅行は中止にしました」との連絡。楽しみにしていた子供たちの修学旅行は,一応延期となりました。
 「事ははかる計は人にあり,事を成すは天にあり」
 それに前後して,一番上の娘が研修でニューヨークより帰徳して,東徳島病院の隔離病棟に入っていたことを昨日(5/21)始めて知り,またまた,このたびのインフルエンザには,いろんな意味でインフルエンスされました。
 『大小(だいしょう)の事変(じへん)みな箴戒(しんかい)となす』
 「それもこれもすべてよし」

ニューモラルを読んで・・・No.477
金メダルへの道
     相原 詩恩

 私は,「夢と目標を設定する」で,国枝慎吾さんは,病気で車いす生活だったけど,テニスとめぐりあって,金メダルまでもらったそうだ。そこまでたどりつけたのは,両親やコーチからのおうえんで,そこまでたどりつけたそうだ。周りの人たちのおかげで,金メダルまでたどりついた慎吾さんは,とても幸せだと思う。
 「毎日の積み重ねの成果」で,毎日ファイトの気持ちで,やりたい事をつみかさねてくると,いつかはその成果がでて思う以上によくなると言いかけているように思えた。
 私も,水泳の大会にでるために毎日練習をしていた。だから,本番の時,自分が学校の練習の時以上のタイムを出せた。まるで私に言ってくれているようにも聞こえた。
 今年も大会があるなら行きたいから,慎吾さんのようにやろうと思う。そして,毎日練習をして上達できるようにがんばりたい。

忌部の話 三十 「池辺 真榛」
               尾野 益大

 斎部広成が平安時代に著した「古語拾遺」を考証,注釈した研究書「古語拾遺新註(8巻)」の著者が徳島にいた。その名は池辺真榛(いけべまはり)。阿波を代表する国学者であり,幕末に尊皇攘夷の立場で国事を論じた志士である。徳島藩士・樋口藤佐衛門の家臣・池辺武右衛門の長男として1830(天保元)年に生まれた。
 古語拾遺新註は20歳のとき志し26歳で完成させた。内容について,古語拾遺には古事記や日本書紀に漏れた珍しく貴重な事柄があり,わが国の祭事・政治・経済などの大本と上代の歴史・思想を研究する上で古事記,日本書紀に次ぐ大事な書物と位置づけている。古語拾遺新註は後世に「本居宣長の『古事記伝』,鹿持雅澄の『万葉集古義』,鈴木重胤の『祝詞講義』に匹敵する価値がある」との評価もあった。また日本浪曼派の保田興重郎を若いころ感動させた名著でもあるという。
 やはり徳島出身の国学者・小杉榲邨が「池辺真榛は歴史上の真実について言えない事情があった」との意味深い発言をしたとされる。真榛は,忌部と忌部にまつわる古代阿波の役割について重要な事実を知っていて,藩の命令で隠さざるを得なかったのではないかと推測できる。事実,真榛は藩政を非難した罪で藩邸に幽閉され赤痢のため34歳の若さで亡くなった。幽閉は幕府の志士弾圧の余波だったとされるが,それだけが理由だったのだろうか。
 真榛が各地で集めた貴重な資料集である真榛直筆の「古文書集(5冊)」も存在する。この中には阿波国最初の国絵図「新島荘図」(758年)も筆写されており,小杉榲邨が「阿波国徴古雑抄」で公表する以前に真榛はその存在を知っていたことを証明した。真榛の実証的態度は既に現代の科学的な資料収集・保存の方法論に通じるものがあった。
 その古文書集は小松島市金磯の名家・多田家に伝えられていた。多田家は真榛を擁護した家として知られ,榲邨の「阿波国徴古雑抄」の発刊を支えた家であった。そして阿波忌部の末裔である旧木屋平村の三木家,旧美郷村の後藤田家と親戚である。