三木家古文書について(その9)
               三木 信夫

 元弘三年(1333年)には鎌倉幕府が滅亡し,光厳天皇は廃位,後醍醐天皇が京都に還幸(かんこう)して新政に取り組んだ。しかし,天皇の理想は,古代天皇制への復帰という時代に逆行するもので新政は二年ほどで崩壊し,南北朝の内乱となるのである。


 元弘三年,後醍醐天皇の再度大嘗会が行われた後,その麁服奉仕者である御衣御殿人全員が,同年十一月日付で前年の「正慶の契約状」同様に「阿波国御衣御殿人(みぞみあらかんど)契約状」(写真参照)が結ばれている。13人の連署があり,この時は三木氏村と共に父の長者長村(=麻植忌部長者三木長村)の名もみえる。
 当時「三木長村」が麻植忌部集団の長者に任命されているのは,三木忌部氏がすでに大きな勢力を有していたからと考えられる。

 参考)
皇室略系図(該当青書き)


ねちゃねちゃしよんはどこな!
祖母が語った阿波の民話(その1)
               天羽 達郎

 昭和50年代にドリフターズの「全員集合」というテレビ番組があり一世を風靡した。子供は「うんち」だ「おしっこ」と言えばかならず笑う。その手を使って笑いを取るあまり上品でない番組だ。僕は母方の祖母と小さい頃一緒によく寝ていた。母の里は旧高志村,今の上板町瀬部で天然記念物の大銀杏の木がすぐ近くにあるところで,冬の農閑期になると祖母は必ずやってきた。当時桑野にも映画館がありそこに行くのが楽しみだった。そして寝物語を毎晩聞かせてくれた。ドリフターズまがいの,ずいぶんえげつない下ネタのもので,今思い出すと祖母はよくそんな話を孫に平気でしたものだと,おかしくなる。
 高志村の○○さんがお便所に入っていた時,火事だ火事だという声が上がった。その人はお尻も拭かずに慌てて出てきて,火事はどこな!っというのを間違えて,ねちゃねちゃしよんはどこな!といった。うんこでお尻がねちゃねちゃしているのでそう言ったそうな。そういって祖母はほっほっほっとおもしろそうに笑った。この話が一番回数が多かった。民話というよりも実際にあったものだとして聞かされた。それを母に告げると,母は「ああ,○○はんてなぁ〜」といってはっはっはって笑った。実際にあった話なのかなぁ。

忌部の話 三十一 「小杉 榲邨」
               尾野 益大

 明治初年,式内社・忌部神社の所在地を特定する論争がわき起こった時,重要な役割を果たしたのが徳島出身の歴史家・小杉榲邨(すぎむら)だった。1834(天保5)年,徳島藩中老である西尾家の家臣,小杉家に生まれ,国学を池辺真榛らに学んだ。
 榲邨は忌部神社論争で,旧木屋平村三ツ木に住む阿波忌部の末裔三木家に伝わる「忌部の契約」文書などを根拠に挙げ,旧山川町山崎の忌部神社と比定考証したことで知られる。
 榲邨は東北から九州までの寺社,旧家などを調査,筆写した古文書集「徴古雑抄(ちょうこざっしょう)」(正編138冊,続編51冊)をまとめた。この中で三木家文書など阿波徳島の古代から近世までの史料を「阿波国徴古雑抄」として別に著した。今でも徳島の郷土史を学ぶ人々のバイブルである。発刊にあたり,「古語拾遺新註」の著者・池辺真榛を庇護した小松島市金磯の多田家が支援したことが,阿波国徴古雑抄の冒頭に記されている。
 発刊が計画された際,榲邨は病床に臥しており,発刊のめどが立ったことを大いに喜んだという。しかし残念ながら榲邨はこの書を見ることはなかった。3年前に亡くなっていた。
 榲邨は1874(明治7)年に東京に移り,文部省や東京大学,東京国立博物館に勤務。正倉院の調査研究でも活躍した。徳島出身の後輩学者の鳥居龍蔵や喜田貞吉とも親交を結び,鳥居夫妻の結婚の媒酌人を務めた。榲邨は忌部に関する史料も多く集めたほか,鳥居の著書「ある老学徒の手記」に記した榲邨自筆の和歌に「忌部宿祢」の印を押しており,阿波忌部を深く意識していたことが分かる。阿波国徴古雑抄は喜田が代表者だった日本歴史地理学会が発刊。榲邨が日本書紀に基づいて提唱した「法隆寺再建論」を継承したのも喜田だった。
 歴史を振り返ると,阿波忌部を通じてつながった大きな輪が見えてくる。

苦手意識       大西 時子

 私の父は明治生まれでハーモニカを上手く吹きました。子供の頃よく伴奏をいれて小学校唱歌を吹いてくれました。口笛も上手に吹きました。
 それがとてもかっこ良く見えて小学校入学前にランドセルと一緒に揃えられたハーモニカや木琴に心踊ったのを思い出します。
 楽器は大好きでそのうちメロディーをなぞって簡単なはやりの歌等も演奏出来るようになりました。ところが,歌となると音が外れて人前で歌う事がどうしてもできません。
 遠足のバスで回ってくるマイクが楽しいはずの一日を憂鬱にさせ,音楽の時間のたまにある独唱も朝からドキドキ。
 そんな歌う事への苦手意識がン十年経過の今でも払拭できず,聴くだけ飲むだけのカラオケの不調法をなんとか打開したいものだと長年思ってきたことでした。
 先日私の所属する古事記研究主催の『カラオケ大会』が開催され,腹をくくりました。
「習うより馴れろ」
 セミプロ級のカラオケクラブの精鋭の皆さんに混じってどうみても赤っぱじものの「素直に下手」な私の歌が披露されたのでした。
 ところがどうでしょう,なんとなく歌って気持ちのいい私もいて……,癖になるってこのこと?なんて思ったことでした。
 秘かにカラオケ通いの私がいてる……かもですネ。


              {マドチャン}