三木家古文書について(その10)
               三木 信夫

 阿波の南北朝時代は,足利尊氏が後醍醐天皇の建武新政に反旗を翻し,京都での戦いに敗れて九州に下る途中,四国に細川一族を配したことで,細川和氏(かずうじ)・頼春(よりはる)兄弟の阿波入部(にゅうぶ)により始まる。細川氏は足利氏の領有していた秋月荘内に拠点をおき,阿波の平野部の主な在地武士を迅速に糾合し,九州から畿内に攻め上がった尊氏軍と合流して合戦に加わっている。
 尊氏は光厳院を奉じて入京,その後光厳院の弟・光明天皇を擁立し,室町幕府(1336年)を開くと阿波は細川氏の領国となり,鎌倉幕府の阿波守護であった小笠原氏に代わり守護となる。しかし細川氏の阿波支配に対抗して,吉野に逃れた後醍醐天皇を擁する勢力と連絡を取りながら,細川氏に従わなかった小笠原氏や一宮氏と共に山間部に勢力を持った土豪的武士団で,後に「阿波山岳武士」と呼ばれた,広大な名(みょう)を支配する名主達であった。山岳武士としては,祖谷(いや)山の菅生(すげおい)氏・落合氏・渡辺氏・徳善(とくぜん)氏,種野山の三木氏・木屋平氏などであった。中でも三木氏は南朝に忠節をつくし38年余その節を曲げなかった。これを証する安堵状・宛行(あてがい)状・感状・後村上天皇綸旨等の多数の南朝文書があるが,北朝の叙任書等もある。当時三木氏は長村・氏村・重村と三代にわたって麻植忌部長者の職にあり,大きな勢力を有していた。しかし,細川氏と直接合戦をした記録はなく,一宮城等で参戦した程度でないかと思われる。細川氏は尊氏の側近として活躍して,後には幕政にも関与しており,三木家が御殿人(みあらかんど)として,暦応元年(1338年)足利氏が擁立した北朝の光明天皇大嘗祭に麁服を貢進しており,阿波忌部氏として上古より朝廷と深いつながり持っている等から,南朝に与するもこちらから合戦をしかけない限りしなかったのでないだろうか? 太平記22巻暦応3年(1341年)5月4日の条に「此の陣は三木板東板西の兵共云々…」とありこの三木は三木氏であると,小杉榲邨(すぎむら)氏の阿波国微古雑抄に記載がある。重村の長子則村は正平年間に戦死している。
 康永4年(1345年)には三木重村が光明天皇より叙任書を頂いている。南朝の式微と共に時代の変化に対応した生き方を模索して南朝・北朝と揺れ動いている。
 半世紀以上にわたる南北朝の動乱は,武家の仕組みを強くし封建制への節目ともなっている。

すもも           天羽 達郎

 遠き日の硬くてすっぱいすももかな
     買うて食べればぬるぬる甘き

昨年の長期の病気をして思う事
                 山田 章

 H20年7月28日,突然にして右半身脇腹に日本地図をかたどった,赤く腫れ上がった腫れ物におそわれた。其の后1ヶ月の長い間,強烈な頭痛と神経の痛みが全身に走り,自分の元気であった体がうその様に昼夜にわたって痛み苦しんだ。
 医者に診てもらって,これが帯状疱疹と診断された。1ヶ月后に治りかける頃から,次々と病気のオンパレードが始まった。直腸閉塞が出て大便の詰まりで苦しんだ。此の苦しみも医者の機敏な処置で助けられた直後であった。次に前立腺肥大が出た。発見されたのが真夜中であり,掛かり付けの医者では手に負えず,救急車のお世話になって中央病院に運び込まれて一命を取り留める事が出来た。小便をカテーテルで採る装置をして,腰に袋をぶら下げての生活が何日も続いた。その間に「うつ病」が出た。介護してきた家内の話では,顔が腫れ上がって他人の様相であったとの事。私本人は何一つ記憶にない時間が過ぎた。此の様にして,私の72年間の人生の悪汁を絞り出す様にして,次々と症状がこれもあれもとやって来た。
 私の性格として,「万事何事も有難いと感謝する心を!」常日頃勉強して自分に言ってきたが,今回だけは,心が動転していて,捨て鉢になった。
 何でも来いと思う気持ちが出来た頃,次第と落ち着いて来た。其の后,此の機会にと病気を受けて立つ思いで歯医者さんにもお世話になった。
 いずれのときも,我が身を切られるような思いに悩みつつも,勇気を鼓舞して,有難いと心を感謝につなげようと,崩れそうな自分を自分で叱りつける必死の形相であったと思う。
 しかし,これは困った。これはなんとか他に助けを求めなければならないというような貧困な考えでありますと,知恵(体)がだんだんと役立たなくなり,だんだんと意志が弱くなり,今まで平気で考えがついておった事が考えつかない事になり,貧すれば鈍するとなり,終わっていたのではないかと思う。
 覚悟を定めて,全てを受け入れる広い心が出来て,最大の努力を持って立ち向かうと云う,「有難い」と感謝の心を確立する事が,今の私に最も大切であると思っております。只今は以前に増して元気にやっております。有難う御座居ました。皆様方のお陰です。
 重ねて御礼を申し上げます。有難う御座居ます。

ありがとう        山田 善仁

 『法句経』の名で知られる「真理のことば(ダンマパダ)」は,ブッダ(ゴータマシッダールタ・釈尊)の教えを集めたもので,人間そのものへの深い反省や生活の指針が風格ある簡潔な句に表されている。その中の182番には,「人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。」とある。
 それは,あらゆる生物の中で,人に生まれるのは実に難しい。そして人々に寿命が有り,又,正しい教えを聞けるのも難しい。諸々の御仏が出現する事も実に難しい。それらは難しいが存在し,有るという事を「有難(ありがたい)」と言う。
 我々が何気なく使っている「ありがとう」と言う言葉は,ここから生まれたので有る。
 生物誕生以来現在まで,長い長い時間のうちの点でしかない人の寿命,そして何十億人の中の一人に出会える事は,素晴らしい事である。そして去り行く人にまた再会出来る事は,実に素晴らしい。
 ありがとう!!