あらたえ      三木 信夫

 三木家は,阿波忌部氏の直系としての忌部氏であって,三ツ木という地名に因む苗字を帯びているが,忌部姓がその本姓である。
 上古以来歴代の践祚大嘗祭に,御殿人(みあらかんど)として麁服(あらたえ)を貢進して朝廷と深いつながりを持っていた。
 麁服の仕組は,天皇が践祚すると,天皇の下命により,神祇の祭祀をつかさどり全国の官社を総管する「神祇官」より官宣旨を,国政を総括する「太政官」より太政官符をそれぞれ阿波国司に下す。
 阿波国司は,官宣旨・太政官符それぞれの写しを持って,御殿人である代表の三木忌部氏に伝達し,下命を受けた忌部一族の御衣御殿人(みぞみあらかんど)達が三木家を中心に役割を果している。
 出来上がった麁服は三木家に安置,その後受取に下向した勅使「荒妙御衣使(あらたえのみぞつかい)」(従五位クラス)に進上し,御殿人は麁服と共に京師へ同行する。京師に到着すると,麁服は大嘗会の当日まで特別に神祇官で保管される。大嘗会の当日,同行した御殿人5人は,一人が榊に木綿(ゆう)をつけて持ち,その後ろに「入目籠」に入れた麁服を「麁服案」という四角い机にのせ,四人の忌部が担いで大嘗祭の行列に加わり,最後は大嘗宮に安置する。
 このようにして,麁服は,最後まで阿波忌部氏の手によって供納され,天皇が神々の威霊を体得する儀式に使用されるのである。

考古学からみた阿波のくに(1)
(徳島大学公開講座より)
               天羽 達郎

 私が東京在住の頃,山形県出身の友人が言った。「受験で日本史を勉強するとほんとに嫌になる。いつも東北は京都からの軍隊に征伐されたり懲らしめられたりしているからだ。」古代史だけではない,近代史においても東北人は憤懣やる方ない感情を抱いている。幕末明治の戊辰戦役で会津城を攻めた政府軍のことを,会津の人々は絶対に官軍とは呼ばない。西軍という。この言葉には東北人の歴史に対する怨念がこもっている。なぜなら従来の歴史は京都など中央の都合で語られた歴史であるからだ。徳島大学助教中村豊先生の講義「考古学からみた阿波のくに」は,こういったものではなく,地方すなわち「阿波」に軸足を据えた歴史を考古学から考えようというものでした。大変に面白かった。
 まず青石。われわれ徳島人には,青色の結晶片石いわゆる青石は取り立てて珍しいものではない。しかし近畿にはない。それが縄文時代から弥生時代に移行する時期,徳島で青石の石棒が大量に作られ,近畿地方から東部瀬戸内地方に送られている。大きいものは長さ80cm,直径10cm,重さは10kgぐらいある。祭器用らしいが,なんのための祭器か分からない。犬が埋葬されその周りに石棒が置かれていたりしている。住居の跡からは出てこない。この石棒は見返を求めず贈り物として阿波から配られている。
 次には銅鐸。徳島出土の弥生青銅器は銅鐸が圧倒的に多い。遺跡数では29遺跡で,兵庫県の39遺跡をトップに5番目。点数では43点で兵庫県の60点島根県の54点に次いで3番目である。旧国名で表すと出雲の50点に次いで2番目。出雲の加茂岩倉遺跡1ヵ所でまとまって39点が見つかったのを別扱いにすれば,なんと阿波が断トツである。四国出土総数72点の54%を占める。なぜこんなに多いのか。

天香具山から
         天香具山神社宮司 橘 豊咲

 残暑の候,秋風が大和路の広々とした稲田を吹き渡る頃と相成りました。元気そうなお電話の声を聴いて何よりです。
 日夜「阿波古事記研究会」の発展に寄与なされ,敬服の外ありません。
 本日29日午後6時から出合町春日神社の風鎮祭(ふうちんさい)を奉仕致します。

俳句   そよそよと 香具山麓の稲田風    橘 香林

 登山道の上がりに坐すイザナミ神社の直ぐ下方の田は,雨が降って田植えのできるところで,去る8月23日,愛宕社(あたごしゃ)火の神を祀る自然石をご神体とする社で例祭があり奉仕。13年間奉仕の実感です。
 来る霜月(11月)の祭典執行の日時と場所を決まり次第,お知らせ願えれば幸いです。
 役員の方々にお会いになったら,ご致声下さい。

忌部の話 三十四 「備前焼」
               尾野 益大

 備前焼は別名を「伊部焼」と呼ばれている。岡山県備前市の伊部,香登にまたがって粘土層が走り,そこで採ったアルカリ分たっぷりの土は日本一焼き締めによいとされ備前焼に利用されている。備前焼は室町時代から「伊部焼」と呼ばれていたという。
 研究者の間では,伊部は「忌部」の転訛とみられている。古くから忌部氏と関係があったのであろう。
そこで生まれた陶器ということで伊部焼になった。
 しかし伊部と忌部を結びつける系図は存在せず,忌部姓という苗字の伝承もないようだ。室町時代の座組織である共同窯には「窯六姓」として木村,森,寺見,大饗,金重,頓宮があることが分かっているだけである。ただし忌部姓から改名した可能性は否定できない。
 伊部焼に携わってきた集団は,平安時代から鎌倉時代に伊部地方に移り住んだとされ,それまでは少し南の長船で須恵器を製作していた。その須恵器を作っていた集団が忌部だったのか,今の伊部に元々忌部のすみかがあったのかは実は定かではない。伊部周辺で採れる土は150万年前,石英粗面岩が風化して堆積した土。それが一度,海に沈んで再び隆起してきた土だそうだ。忌部が構成する集団が焼物をするのによい土を探して到着した土地だったのかもしれない。
 伝承であれ,忌部から伊部に漢字を変えてでも「いんべ」の地名を残している事実は極めて重要である。古来一貫して釉を用いない自然の土味とさまざまな窯変を生かした備前焼すなわち伊部焼の独特の美しさは,忌部に支えられて将来もずっと生き続けるであろう。

徳島発 日本酒紀行 3
               竹馬 正宗

 「日本酒は体に悪い」と聞くとがっかりする。明らかに誤解である。それはまずい酒を飲んでいるからだ。
 実は戦前の日本酒は米100%で作られることが普通だった。しかし米不足に陥った戦中戦後,材料のよくない人工アルコールやブドウ糖などの糖類を大量に混ぜて作られるようになったという。不幸にも,米がふんだんにある現在でも似た事が繰り返されて「昔の酒とは異なる酒」が作られているようなのだ。
 酒造りの蔵元というと歴史と伝統に裏打ちされ,日本文化に貢献しているというよいプライドがあると信じたいのに悲しい。プライドは現実生活の邪魔をするのだろう。しかし,しっかりとした日本酒はきっと愛され信じられ生き残ると思う。
 消費者は,日本酒はすべて米だけでできていると勘違いしているのではないか。消費者ももっと酒を知る必要がある。本当によい酒を飲めば健康を助けるということが科学的に証明されている。日本酒には100種以上の栄養素があり,特に身体に有益な生理活性を示すアミノ酸が豊富にある。心臓病,がん,糖尿病,認知症,骨粗しょう症を予防する生体調整機能がある。保湿・美肌効果もあり体の内側から美しくなれる。
 ただ飲みすぎはよくない。1日1〜2合程度なら「百薬の長」。言い伝え通りだ。
 戦後,混ざりものの多い酒を飲まされてきた日本人は明らかに日本酒を誤解している。歴史を学ぶことが重要だ。学生など安い酒で一気飲みするものだから益々,酒の味を勘違いして「酒はまずい。体に悪い」と記憶してしまう。安くても売れればいいという店は,国の将来を支える若い人々の心と体を思ってほしい。我が子を思い浮かべてほしい。
 もう一つ。まだ浅いが自分の経験談を言うと,造りのしっかりしたよい酒を飲むと5〜6時間で酔いが覚め,二日酔いにもならない。最初は驚いた。
 日本文化である日本酒。日々,適量飲酒でその天の美禄に酔いたい。