トレセンで学んだ事    笠原 彩加

 私はトレセンに来た時は何があるか,すこし不安でした。でも,友達もできて,いつのまにか不安はなくなっていました。
 初日に学んだ事は,「自分の事は自分でする」です。家では,そうじなどはおばあちゃんがしてくれます。だから,トレセンなどでした事はあまりすることはありません。だから,これからはできるだけ自分の事はしてがんばっていきたいです。
 次はフィールド・ワークで仲間と協力してがんばることを学びました。学校では私と友達二人で行動しています。だから,フィールド・ワークでするみたいに六人ですることをあまりできません。暗やみの国ではみんなが目かくしをして,先頭の人が声かけをしたり,後の人が前の人からはなれたら待ってあげたりしました。こういう事が,チームワークだと思いました。学校でも,仲間を大切にしたいです。

あっという間の一年   平 澄子

 今年も残すところ後3ヶ月となりました。
 一年365日と同じ日数なのに,毎年毎年「今年は早かったなあ」と皆,同じように言います。
 早くても,充実しているかどうかなので,出来る限り時間をじょうずに使いたいと思います。
 最近までは,夜テレビの前でボーとしていたり,ゴロッと横になったらしばらくそのままだったりして,時間がもったいないなあと思いながら,夏の疲れのせいにしていました。
 この秋の夜長,時間をうまく使いたいと思います。

大好きな秋        笹田 恵子

 朝夕,めっきり涼しくなりました。
 秋はいろいろな作物が採れ,また,お祭りや運動会などで賑わい,「食欲の秋」「スポーツの秋」など,いろいろに例えられます。
 また,秋は「もの悲しい」などと表現する人もいます。でも,木々の緑は,赤や黄色に色付き,花や木の実もその季節らしく,いろいろな形で自己主張し,山はそれらを全部,一枚の絵画のようにまとめあげる。
 その山を散策し,木の実や枝を少しだけいただいて,リースや置き物を造って楽しむ……。
 私は,そんな秋が大好き!!

 短 歌         本多 幸代

 おごそかな
   霊気 身にあび
     土を踏む

 大麻山に
   朝の光が

天の岩戸が開くとき 人は神に帰る 38
 神は,ある。      三村 隆範

 キリストは,「第一の掟」として
 「神は,唯一の主である。」〔聖書【マルコ12-29】〕
と書かれている。
 この「神は,唯一」とは,どういうことだろうか?唯一というと,多くの中の一つと読むだろうが,そうではない。なぜなら「神は,すべてである。」というからだ。
 モーセは神の山ホレブで,
「人々から神の名前をたずねられたら何というのですか?」と神にたずねる。神はモーセに言う。「『わたしは,有って有る者』。これは永遠に私の名,これは世々のわたしの呼び名である。」と言ったと旧約聖書の【出エジプト記,三章】に書かれている。
 また,「アブラハムが生まれる前から
    『わたしはある。』〔聖書【ヨハネ8-58】〕
    事が起こったとき,『わたしはある。』と
    いうことを,あなた方が信じるようになる
    ためである。〔聖書【ヨハネ13-19】〕
 これらのことからわかるように『わたしはある。』ということは,すぐ目の前にあるいうことです。
 ですから,今,自分の目の前に起こっていることを「よし」とできるのか? それが信じられるか?ということです。
 人間は,見よう,信じようとしているのは,良い事が起こることです。
 「はっきり言っておく。あなたがたが私を捜しているのは,しるしを見たからでなく,パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく,いつまでもなくならないで,永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ,人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が,人の子を認証されたからである。」〔聖書【ヨハネ6-26】〕
 目の前のことを,いつも喜んでいられないのです。
 わたしと父とは一つである。〔聖書【ヨハネ10-30】〕
 「これらのことを話したのは,わたしの喜びがあなた方の内にあり,あなたがたの喜びが満たされるためである。」〔聖書【ヨハネ15-11】〕
 「世にいる間に,これらのことを語るのは,わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」〔聖書【ヨハネ17-13】〕
 生きている時に,
「あぁ 生きていて良かった。」と思うことができないのなら,いつ思うことができるのだろうか。