文化財民家を護る      三木 信夫

 私の生家は,中世の系譜を引く武家の遺構の整形八間どり構造で価値が高いとして昭和51年2月3日国指定の重要文化財に指定されました。建物は1615年〜50年の間に建てられたもので,茅葺,南・西・北は庇付,柱は17cm角の釿仕上げでほぼ一間毎に立ち,大黒柱が無く,壁の少ない整形八間取り構造の大規模な家です。立地場所は,剣山山系に連なる三木山の頂上近く(海抜552m)にあります。
 文化財は,国民の財産として歴史上・芸術上価値が高いもので,大切に後世に残す必要のあるものを国が指定したものです。構造物の場合その地域の歴史と共に歩んできただけに,地域の皆さんと行政と所有者が一体となって護ってゆかなければなりませんが,この地域は,昭和の高度成長期以降過疎化が進み,今では限界集落となり,過疎化と高齢化で何かと協力を依頼する人達も少なくなってきております。指定建造物が個人所有で私的居住という制約が,行政も公開を逡巡させる原因となっていますし,多くの人達にとっても,重文民家の実情に触れることが少なく,外観を見る程度で遠い存在になっています。その為にまず地域の子供達に文化財から学ぶ姿勢を学習の場に使用する事等で,文化財を護るという気持ちと文化遺産を継承してゆこうという気持ちを醸成するのです。同時に子供達等に地域の歴史を教えることが,故郷を大切にする事です。
 文化庁曰く「文化財を見学させる場合は,必ず見学料を取ることで,見学する人の姿勢が変わります。」
 見学も観光気分では困るのと,タダほど身に付かないものはないとの事です。
 私も次の世代を育てる為に,都会で育った孫達を毎年盆休みには親達と共に墓掃除をさせ故郷を身体で覚えさせるように努力しています。
 構造物文化財を護る事は,これからも大変なエネルギーと費用と,大勢の人々の真摯な真心が必要なのです。

考古学からみた阿波のくに(2)
(徳島大学公開講座より)
               天羽 達郎

 徳島大学病院の建て変え工事の時,弥生時代の畠が見つかった。弥生時代といえば一面の水田を思い浮かべるが,阿波では吉野川が暴れ川であるため水田に適する所が少なく畠がけっこう多かった。弥生時代前期までさかのぼる類例は,福岡県小郡市三沢蓬ヶ浦(ふつがうら)遺跡,三重県松坂市筋違(すじかい)遺跡に次いで3番目であるが,前2者より完全な形で発見された。今後耕作土壌を洗浄し,どの様な種子が検索されるかたのしみである。おそらく米以外の穀物の種子がたくさん出てくるであろう。因みに続日本紀によれば阿波の国は米が少ないので税は麦でよろしいという記述があるそうだ。阿波はもともと粟の国といわれており古事記によれば「この島(四国)は身一つにして面(おも)四つあり,面ごとに名あり,粟国を大宣都比売(おおげつひめ)と謂ふ」とある。大宣都比売が速須佐之男命に殺された時死体の頭に蚕,目に稲種,耳に粟,鼻に小豆,陰(ほと)に麦,尻に大豆ができた。すなわち五穀の神様大宣都比売の国が徳島である。このような物語ができた背景には畠作物が数多く取れる土地柄ということがあげられる。少なくとも北海道ではこんな話は生まれない。
 最後には前方後円墳の話。平成13年の講義で北條芳隆助教授(現東海大教授)は前方後円墳のルーツは阿波,東讃岐,西播磨であった可能性が高いという。しかも日本最古の前方後円墳は鳴門市の萩原墳丘墓で,長径わずか27mである。それは最古の巨大前方後円墳桜井市の箸墓古墳(長径286m)より数十年古く,しかもそれの租型がいくつか見られるという。その一つが前方部が細くて短いということで,円墳の上にものを運ぶ通路に使っていたらしい。それが発展して鍵穴型の前方後円墳になったという。前方後円墳がなぜあのような奇妙な形になったかはこれで合点がいく。徳島の古墳時代は小型のものばかりが数多く作られ,他の地方より100年早くその終焉を迎えている。
 以上徳島における考古学の学習メモに私見を交えて述べた。古代の徳島は近畿の文化を受け身的に捕らえたのではなく,能動的積極的にかかわってきたらしい。それを思うとわくわくする。

大和の祝(はふり)の回顧
         天香具山神社宮司 橘 豊咲

 人の一生とは,何事に対しても,前向きに考えて努力をすれば,窮地から逃れることが出来ると信じたい。唯運命的な何かに操られて,こんな筈では無かったのに,思案に余ることがあって立身を断念したことがあると思う。しかし大和の 最中 ( もなか ) に位置する天香具山山麓の十二社の宮司として十三年に当たることを,神縁に依るものと感謝の気持ちで,一年でも長く,来年長月の上旬に八十歳を迎えられることを信じて止まない所以であります。
 然して,平成九年卯月の頃と記憶していますが,橿原市南浦町の福本博治氏の紹介に依り,「阿波古事記研究会」の皆さんと交流できるようになって,神山町の天元山,天岩戸立岩神社の開元祭に参列できましたことを,そして現在も,今後も年に一度,来年阿波で祭典が無い場合でも,単身で花見を兼ねて,参列できなかった二社程の神社へ参拝致し度,今から考えて居るところです。天元山立岩神社の開元祭の直前に,一天俄に曇って参進の笛の吹奏を始めると,間も無く雷鳴轟き土砂降りの雨で,神威照徹と申しますか,大和の天岩戸神社の宮司の参拝に呼応した様に思った次第です。能登一宮気多大社十三代の祝の見えるのを歓迎するかの様でした。今後交流の事をよろしくお願いします。

俳句

 熱風の吹かぬ香具山夏の果て

 秋口の香具山頂に経の声

 そよそよと香具山麓の稲田風

 登拝者の山頂からの木霊かな

 春寒に苗代づくり阿波の里

短歌

 八桙の神見そなはす祭礼に
   微笑みながら熱意の踊り

 香具山に登拝する人どの道も
   三歩に一歩下がるとこあり

                橘 香林

法要と「阿」       相原 雄二

 今月(10月),叔父の49日法要と,弟の33回忌法要を営みました。どちらにも真言宗のお坊さんが来て下さいました。真言では「南無大師遍照金剛」と念ずる。それと同じく「南無阿弥陀仏」は浄土宗や浄土真宗のお念仏だ。説明では,おんあぼきゃの二十三字をちぢむれば,あびらうんけん五字となり,五字をちぢめて「阿吽」なり,阿吽の二字も「阿」字に帰す。「阿阿」と唱える一声に,阿弥陀あぼきゃもこもります。
 朝夕一心専念に,「阿」字の一字を観ずべし,と。これもしかして阿波の『阿』ですよね。
 密教行者にとって,『阿』字を観想することがどんなに重要なことか。讃岐(香川県)出身の弘法大師(空海)が,四国八十八ケ所霊場,一番札所霊山寺を,阿波(徳島県)に置かれたのも,この『阿』字に深い意味があるのだろうか。
 どのようであろうとも,われわれの祖先が自然と共生,自然に感謝する心,そして祖先の思いを大切に守る心を守り伝えてきたように,私たちはその受け継いだ生命と文化を発展させ,次の世代に受け渡す義務があります。
 法要というご縁で,親族縁者が一堂に会し合掌する時間と,梵字の「」から阿波の「阿」を味わうことができ感謝しています。

波は阿波から「青石は語る」に参加して…
               相原 詩恩

 10月18日(日)に,あわぎんホールで,「青石は語る」という講演会があった。ホールに着いたら,かんばんを運んだり,旗を外に置いたりした。
 最初の方は,人が少なかったが,少しずつ多くなった。
 講演が始まって,私は話を聞いていたが,意味が分からなかった。けど,「古事記」を分かりやすく説明してくれるのは,よく分かって面白かった。
 そして,講演が終わって何かほっとした。片付けもして,帰る時に背伸びをしたら,身体がボキボキ鳴っていたので,すごくつかれたんだなぁと思った。
 「青石は語る」の講演を聞いて,ほとんど意味が分からなかったが,青石はお祭りの時に使われていたと分かった。あんなのをきれいに丸くけずるのは大変だったんだろうなぁと思った。