三木家古文書について(その12) 1336年後醍醐天皇が吉野に移り,南北朝の対立から12年後の正平3年(1348)南朝楠軍と北朝?師直(こうのもろなお)軍が大阪の四条畷で戦い,北朝武家方の大勝利となる。師直軍はさらに吉野まで押し寄せ行宮(あんぐう)や寺などを焼きはらい,後村上天皇は吉野から西吉野の賀名生(あのう)(=今の五条市)へ逃れ,現在重要文化財となっている堀家住宅を仮行宮としている。転々としながらも最後まで南朝は堀家を利用している。四条畷合戦の翌年より,足利氏の内部で分裂騒ぎが起こり,正平6年(1351)弟の直義(ただよし)が突然南朝に降り,更に尊氏も南朝に降り互いに相戦い直義は鎌倉で尊氏に毒殺される。
(訳) 宛行(あてがい) |
屁ぇひり婆さんの話 あるところに上手に屁ぇをひる婆さんがおって,屁ぇの音でいろんな鳴き声を出すんじゃ。もぉ〜とか,ひひひぃ〜んとか牛や馬のは序の口で,こけこっこぉ〜と鶏の声や,ホーホケキョという鶯のさえずりまでやるんじゃ。ある時お殿さんがほれを聞き付けて,いっかい聞かしてくれといいました。ほれで婆さんはいっちょらいの着物を着いて出掛けて行きました。お殿さん方へお尻を向けていろいろな声を出し,最後にホーホケキョ,ケキョ,ケキョ,ケキョ,とやったら,お殿さんは大変感心し,褒美をいっぱいくれました。 つづく |
すべての思いを家族に 62 家族でも有り難う。お陰様。大丈夫,気を付けてと言えば,心の灯火です。家族を明るく温かくする心です。心の灯火です。この心の灯火は使うほど大きくなるのです。自然の力って不思議ですね。挨拶って自分への魔よけなのです。 |
自然農で気付いたこと(2) 西村 学 僕は,自然農をする前は,全く農業を知りませんでした。そして,自然農をゼロから学びました。自然農を実践していく上で,知らずしらずに自然農は善,その他の農(慣行農法や有機農法)は悪という考えになっている事に気付きました。自然農は素晴らしいと思いますが,一つの考えに執着していると他を排除(非難)してしまいます。いくら素晴らしい農であっても他を非難すれば,挙句の果ては争いの種になってしまいます。 |
誕 生 日 松林 幸二郎 この時期には未だ早い降雪が,窓の外に広がる自然を,真冬の白い世界に変えてしまいました。秋の日に,淡い色とりどりに,それは美しく咲いていた何百本という日本コスモスが,咲き終わらぬ前に,厳しい寒気と重い雪につぶされて無惨な姿を曝していました。コスモスが大好きだったという横田めぐみさんが自由な身となって,スイスに咲く日本コスモをみたら,どれほど感激されるだろうかと想像しながら,春先から一生懸命育ててきたコスモスでしたが,人の予測しがたい自然の力を前に,人間の無力さを実感させられました。
窓の外の冷たい景色とは対照的に,妻によって焼べられた薪によって暖められた農家の小さな居間は,私の62歳の誕生日を祝うために集まった3人の娘と,その伴侶,孫娘のめぐみ,さらに仕事の為この春から近くに住むことになった姪夫婦と幼い息子によって埋められ,狭いながらも心あたたまる豊かな空間を醸しだしていました。顔の皺もシミも増え,体力精神力も衰え,病も避けられぬのに,誕生日というのは,又ひとつ歳をとることで,なんの楽しみや喜びがあろうと,若いころは考えてきました。しかし,自分の生命は,自分で勝手にできる所有物でなく,神より与えられたものであり,イエスと人のために用いるもので,そのために肉体に賜物も健康も与えられているのだという真実に出会ったとき,誕生日の意味がまったく異なったものとなりました。 |