私が古事記と出合ったのは,中学か高校であったか定かでないが大安萬呂が稗田阿禮の口述を記録したもの,ぐらいしか記憶に無かった。また,私の生まれた所(広島県)は神楽の盛んな所で小さな頃から須佐之男命の八俣大蛇退治等は知っていましたが,それらが古事記に書かれているとは知りませんでした。私が古事記に関りが出来たのは徳島に来てある日,新聞に古事記古古道マップを差し上げますと言う記事を見てDr.エンドーを訪問したのが最初でした。そこで小冊子を求め興味を持ちました。まずイザナミの祀られている高越山に登りましたがそれと判るようなものはありませんでした。良く調べてみると現在は穴吹に遷座されているとのこと,早速穴吹に行きましたがこれまた判らず地元の人に尋ねると確か「五社?神社」のことではないかと言う事で教えられて行きますとまだ新しい神社がそれでした。またイザナギ神社は淡路島にあることを聞き,バスを乗り継いで行ってきました。こちらはもっと大きな社で立派なものでした。ある時は,那賀町の竹ケ谷に入り四方見坂トンネルや八面神社を訪ねました。黄泉の国から筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原を偲びました。その後Dr.エンドーに新しい資料はないかと訪ねるうちはまってしまいました。3月までは勤めの問題もあり行事等にあまり参加出来ませんでしたが,これからは少しでも参加し勉強してゆきたいと思います。
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覗覘
(
してん
)
魏志倭人伝(3) 山田 善仁
「魏志」倭人の条(倭人伝)は,こう記している。
倭人は帯方郡(現在の韓国ソウル附近)の東南大海の中に住み,山島に依って国邑(諸国の封地)をつくる。
旧
百余国。漢の時,朝見する者が有り,今,使訳(使者と通訳)の通ずる所は三十国。 帯方郡から倭に行くには,海岸に
循
がって水行し,韓国(馬韓)を
歴
て,或いは南へ或いは東へ,その北岸の狗邪韓国(加羅,金海)に到る,七千余里。
始めて一海を渡ること千余里で対海国(対馬)に至る。その大官を
卑狗
(長官)といい,副官を
卑奴毋離
(地方長官)という。居る所は絶遠の島で,
方
(四角の一辺)は四百余里ばかり。土地は山が険しく,深林が多く,道路は鳥や鹿の
径
のようだ。千余戸ある。良い田は無く,海産物を食べて自活し,船に乗って南へ,或いは北へ行き,米を買うなどする。
また南へ一海を千余里で
瀚海
を渡り一大国(
壹岐
)に至る。官をまた卑狗といい,副官を卑奴毋離という。方は三百里ばかり。竹林,
叢林
が多く,三千ばかりの家がある。やや田地が有り,田を耕してもなお食べるには足らず,また南,或いは北へ行き,米を買うなどする。
また一海を渡ること千余里で,
末盧
国(松浦,唐津附近)に至る。四千余戸ある。山海に
浜
うて居住する。草木が盛んに茂り,歩いて行くと前の人が見えない。好んで魚やあわびを捕え,水は深くても浅くても皆な潜って取る。
東南に陸行五百里で,伊都国(日本書紀でいう
伊覩
県,和名抄でいう
怡土
郡,後の
糸島
郡深江)に到る。官を
爾支
(上官)といい,副官を
泄謨觚
(下官)
柄渠觚
(次官)という。千余戸あり,世々王がいるが,皆な女王国に統属する。郡使(帯方郡の役人)が往来し,常に
駐
る治所で有る。
東南の奴国(那の津,博多附近)に至る百里。官を
馬觚
といい,副官を卑奴毋離という。二万余戸ある。東行して不弥国に至る百里。官を
多模
といい,副官を卑奴毋離という。千余家ある。
帯方郡より南,投馬国に至る,水行では20日の距離。官を弥弥といい,副を弥弥那利という。五万余戸ばかり。
帯方郡より南,邪馬壹国に至る。女王の都する所(都とは,外部からの侵入者に備えて,神への祈り文である
祝詞
を入れた箱の上に木の枝を重ね,その上に土をかけて作った土の垣を周囲にめぐらし,人を守る大きな
邑
,集落を都といい,みやこを意味し,その城門に,戦場で棄てられた
屍体
を集めて塗り込み,
呪禁
とし,外界と区別した城門のある都を京,大きなみやこという),水行では10日,陸行では1月の距離である。官に
伊支馬
あり,次を弥馬升といい,次を弥馬獲支といい,次を奴佳という。七万余戸ばかり。
女王国より以北,その戸数,道里は得て略載すべきも,その余の旁国は遠絶にして得て
詳
らかにすべからず。
次に二十国を掲げ,最後(二十一ヶ国目)にまた奴国あり,これ(奴国)女王の境界の尽くる所なり。と記す。
実に陳寿は巧みに筆法を
錯
えて記している。そして錯えた筆法を見抜いた後の史官等が記した歴史書は,正史として扱われている。
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剣山のスーパー林道は日本一長い林道で素晴らしい所であると,以前より聞いていて一度は行ってみたいと思っていました。今年のシルバーウィークの9月21日敬老の日に行ってきた。
起点は,上勝町生実の角屋橋で,「月ヶ谷温泉」のすぐ近くなので,月ヶ谷温泉を目指して行けばよい。月ヶ谷温泉はオートチャンプ場が隣接してあり,そこには昨夜よりキャンプしていた,県外ナンバーの車,オフロードバイクで一杯でした。そこでスーパー林道の観光マップをもらって,いざ出発です。
スーパー林道には沢山の見どころがあります。まずは,百間滝,旭丸峠,土須峠,雲早山(登山口が林道ぞいにあり,山頂まで徒歩1時間)。岳人の森チャンプ場,ファガスの森,高城山と見どころが続き,終点の木頭村の「高の瀬峡」まで87.7キロ続きます。この日はとても最後までは行けないので,中央部の川成峠で引き返すことにした。
このスーパー林道も,県南の海と同じで,4WGの車,オフロードバイクほとんどが県外ナンバーで,関東はさすがに見かけなかったが,近畿,名古屋,岡山,広島,九州の福岡,熊本ナンバーも見かけた。
なんで徳島の人は地元の素晴らしい所に,気づかないのか?あんがい何処も,「地元の神尊ばず」でそうなのかも知れない・・・。
9月と言うのに桜の木が紅葉して,林道最高地点の眺めは素晴らしいのは当然だが,改めて四国の島は山の島を実感した。
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先日,旧知の皆さんとの飲み会があり,久しぶりの三軒梯子なんて暴挙(今や三軒は暴挙です!)をして代行で帰ってきました。
もう15年から20年近くお会いしていなかった人もいて懐かしさはもちろん当時の楽しさが甦って感慨も一入でした。学び語り共に遊んだ皆さんです。
皆さんと出会った当時は,世間の基準や枠を一ミリたりとも外れないコチコチの優等生を地でいく私でしたのでその放埒とビビットな「我がママ」が妙に新鮮で,ぐるぐる巻きがんじがらめの糸に紛れ込んだ迷い子の私をひとつひとつほどいていく作業の始まりの時期ともなりました。
職業も生きた背景も年齢(もちろんそんな大きな開きはないですが)もバラバラ,こんな私達をひとところに集めた磁力は何だったのでしょう………?
かっこ良く言えば,漠然と「生きる」いう「気概」のようなものだったのかな………,なんて思います。
退職しリニューアル人生を精力的に歩んでいらっしゃる方,現役の方ももちろん,存在感の褪せない方,結局,それぞれの皆さんがどれだけご自身を大切にしていらっしゃるかが20年後の現在に投影されているのではないか。
世間の真面目や正義とは別のところで私達は自分自身と向き合い,自分の人生を歩まなければいけないんだなと考えさせられます。
それぞれの皆さんの歩まれた時間,私の時間,なにかとてもいとおしく思えて,当時とはまた違った心の動きの中で時間が過ぎて行ったことでした。
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関裕二の著書「古事記逆説の暗号」から古事記を編纂した時代の情勢についてノートしました。
当時の東アジア情勢は,
1.中国王朝が弱くなると
2.朝鮮半島北部の騎馬民族高句麗が南下し
3.南部の鉄の権益のために
4.倭(やまと)が軍事援助がキーポイント。
協力関係(-)と敵対関係(:)について
倭-伽耶(かや)-百済:高句麗
475高句麗南下→百済・新羅南下
562伽耶滅亡by新羅
581随:高句麗-日本→元興寺
飛鳥寺の伽藍がシンボル
新羅-日本
日本から遣隋使「日出ずる.. 」
聖徳太子 小野妹子
隋の高句麗征伐の疲弊→隋から唐へ
唐:突厥(とっけつ)and吐蕃(とばん)
唐-新羅:百済-高句麗
643大和傍観 蘇我絶頂
660百済滅亡
→復交援助by天智(中大兄皇子)
→663白村江で大敗→百済難民
→西日本に山城
百済-天智:蘇我
672百済-大友皇子(おおとものみこ):
天武(大海人皇子おおあまのみこ)-新羅
8世紀の朝廷:新羅
日本書記:古事記
律令:反律令
体制:反体制
親百済:親新羅
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