「さまよう刃(やいば)」   平 澄子

 竹野内君の映画があると言うので楽しみに待っていたら,徳島のフジグランでは上映しないと言われ,ショックでした。
 落ち込んでいたら,娘が高松のイオンデパートでしているから一緒に行こうと声を掛けてくれました。すぐさま,休みを待って行く事にしました。主人に笑われそうなので「買い物に付き合う」と言って出ました。
 映画の内容としては,娘を殺された父親(寺尾聰)が犯人に復讐をしようとしている。それを止めるのが刑事役の竹野内君。久しぶりに見ごたえのある映画でした。
 遠出をして娘と二人でショッピングをしたり,食事をしたりで楽しかったです。

             本多 幸代

 いつも元気な母。足が少し痛そうにしているけど,散歩もよくしているようです。 昔から少々口やかましいのと,心配性の母。
 今でもバイクに乗って友達の家を訪問して話し疲れたら家路に就くのが夕方だと,父の話です。
 最近少し耳が遠くなったような気がする。
 それより,私より大きかった母がすっかり小さくなった。
 よく働く母でした。よく心配をする母でした。
 何才になっても心配性な母。
 まだまだ元気でいて私の心配をして下さいネと,心の中で小さくなった母に呟き,「また来るネ」。

柊の香り         笹田 恵子

 昨日,仕事が終わり店外へ出ると,どこからか良い香りが漂ってきました。香りの主はお隣の柊の花でした。ホッとした気持ちになり,帰路につきました。
 青汁を配達して,もうすぐ一年が過ぎようとしています。思えば今年は私にとり「激動!?」の一年でした。
 一月には配達の仕事をさせていただく事になり,五月,七月と,私にとってとても大切な人をあいついで亡くし,悲しみに明け暮れる時間もなく,今度はドクターエンドーのカウンターに立つというお仕事に恵まれ……などなど。
 柊の花の香でまさに冬を感じ,一年のいろいろな出来事を降りかえる今日この頃です。そして来年もまた,自分なりに頑張れるように……と思います。

天の岩戸が開くとき 人は神に帰る 40
 人生 スゴロク 
    三村 隆範

 人生は,スゴロクのようなものである。お正月からというより,今から「あがり」を楽しんで日々を過ごしている。
 「あがり」は,人それぞれに違うでしょうが,「あがり」は「あがり」です。自分自身が満足する日々を暮らすことです。つまり,早く「幸せな人生」にあがってしまうと,その人は「幸せな人生」を送ったことになります。
 「聖書」ヨハネ福音書 4章 35-38に
 「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に,刈り入れる人は報酬を受け,永遠の命に至る実を集めている。こうして,種を蒔く人も刈る人も,共に喜ぶのである。そこで,『一人が種を蒔き,別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために,わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し,あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
 と書かれています。キリストは,言っています。
「早く刈れ!」と,しかし,私たちは,
「いや?まだ実って無いです。」と言うでしょう。
 すぐ刈り入れる人は,報酬を受けると言うのです。
 他の人が,蒔いて稔った実も喜んで刈るから,「蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」ということです。先人が,苦労して蒔いて,現在を作ってくれたのです。私たちは,その実りを刈り取るだけでいいのですから,そんなありがたい事は,ありません。だから,蒔く時も喜び,刈る時も喜ぶことが出来ると言うのです。
 良い実は刈り入れるが,悪い実は刈りいれない。というのが人情ですが,起こった事を「良い悪い」と判断するのは,人間の考えですが,何を基準に「良い悪い」を判断しているか考え直してみたいと思います。
 「あがり」遠くにあるものではなく,すぐ目の前にあるのです。蒔いて刈って,蒔いて刈って,同時に行う,その繰り返しです。
 こういう状態にならないと「あがり(幸せ)」でないと言っていたら,一生「あがる(幸せ)」ことはできません。たまたま思うように成ったとしても,それは一時的な事で,その「幸せ」が,いつまでも続くことはありません。「あがり」を目指し,今の「あがり(喜び)」を保ち続けて日々を暮らすことが「幸せ」に暮らす秘訣のようです。