PLAY       朝太郎

 先日の藤井寺から焼山寺までの山の遍路道は険しいながらも,本当に心地のよい空間でありました。軽い気持ちで行けば最高のハイキングコースとも思えます。
 その時に,遍路道の傍らにある岩の上に腰掛けておにぎりを頬張っていた時の事,頭の中に「食う・寝る・遊ぶ」というフレーズが浮かんできました。これは,かなり昔の日産のCMで井上陽水が口にしていたフレーズです。
 その時は「あぁ,ノンビリとしたイメージのCMだなぁ」と思っただけなのですが,今回は別の意味でその言葉を捉えることになりました。
 誰も人のいない山道でひとりおにぎりを頬張りながら。。あぁ,人っていうのはとりあえず食うことと寝ることで生きていくことだけはできるものなんだなぁ・・というのが非常に現実的な実感として浮かんできたのですよね。
 ということは,食うことと寝ることさえできれば後は誰しもが平等なんだということです。
 そんな平等な機会を与えられているのに,何故か人は他人と比べて平等ではないと勘違いして,優越感を持ったり,劣等感を抱いたり,心の中は自由なのだから,自分を幸せと思うか不幸と思うかは自由なのに。。
 そして,最後の「遊ぶ」。。食うことと寝ることの平等さえ与えられれば,後はそれぞれの人生(与えられた命)をいかに遊ぶかということ。
 少し乱暴な言い方かも知れませんが「食う・寝る・遊ぶ」の言葉で,人の人生の全てを語れるように感じたのですよね。いたってシンプル^^
 もちろん遊ぶといっても色んな意味がありますが,この場合は英語のplayを当てはめた方が分かりやすいかもしれません。ということは,それぞれが人生のplayerということになります。
 遊びということになれば,人それぞれ楽しみたいことや得意なジャンルがあるわけで,クラブ活動で言えば体育会系,文科系,もちろん帰宅部もありでしょう。。
 団体競技ゆえの難しさや充実感を楽しむものもあれば,個人競技でマイペースで黙々頑張る人もいるでしょう。帰宅部で何もせずにブラブラすることも,その時間の中で得られるものは必ずあるのでしょうね。
 社会人になっての仕事,はたまた結婚しての子育てに関しても同じ,そして思想信条にしても同じ。人それぞれが己の責任においてplayerとし生きているわけです。
 あの時の遍路道の最後に書かれていた札「心願成就」を見て,「心願なんか心に抱えてないし,成就なんか願って無いわい!」とツッコミを入れた私ですが,その言葉を見て達成感を覚える人も必ずやいるのでしょう(というか,そういう方の方が多いのかも?)
 そして先日,ある方から「朝さん,人生の目的って何ですか?」と聞かれたことがあったのですが,その時は「さぁ・・何やろうねぇ?」と答えました。偉そうに語ってるわりには,そんなことも考えたこと無いの?ってな反応ではありましたが。。
 実は,その時の私の心の中の本音は「人生の目的みたいなもん考えるほど暇では無いし,かといって,そんな目的が無いと生きられないほど弱くは無いわい!」ってな事だったのですよねぇ。
 私に言わせれば,宗教を学んだり修行をすること・・それも個人のplayerとしての遊びの部分。自分が学んだことが正しいのだと他人にまで押し付けるのは違うと思います。遊びの世界はあくまで似た考え方や方向性の同じだったり興味を持つ人だけが同じジャンルのことを楽しめばいいわけですからねぇ。
 全てが自己満足の世界。好みや考え方が違うからと他人を批判するのは違うと思うし,逆に自分のやってることを誰もが認めてくれないからと卑下することも無いでしょう。
 「遊び」という言葉を使ったことで軽いイメージを与えたり,こんな文章の中では言葉足らずの部分もありますが,とりあえずは「食う・寝る・遊ぶ」の3つで人は語れるものだと思ったことでした。。
 たったそれだけで、とてもシンプルな思考の今の私です^^
 そんな訳で,心の贅肉を削ぎ落としたところで、いい筋肉を身にまとうためのこの先のplayに勤しみたいと思います。

せっかちさは引き継がれ
               石渡 修司

 父はせっかちであった。連れ合いである母と一緒に出かけることは,あまり多くなかった。と言うのも,父の歩く速さに母が付いていくことができず,置いてきぼりにされることが多かったからである。一緒に行く意味がないのであった。
 それだけではない,訪問先でも,そのせっかちを発揮し,ゆっくりとはできないのである。せっかく,久しぶりに尋ねた故郷の家もお茶を飲んで,少し話をすると,次の家に行くと言って立ち上がる。次の家も,同じようにして,早々に辞去する。一度の訪問で,二,三軒の家を片付けてしまう。
 父にとっては,訪問したことで十分なのだった。母は,そんな父には付いていけなかった。だから,母は自分の妹達と一緒に故郷には帰って行っていた。そう言う私は,父にも,母にも付いて,出かけたものだった。とにかく,外出できると言うだけで,十分魅力的であったからである。
 今の自分は,果たして,どちらに似ているのだろうかと考える。どうも,父に似ているようだ。どこのお宅を訪ねても,尻がむずむずして,落ち着きがない,用件がすむと,早々に辞去してしまう。これが,催しや展示会でも同じで,展示品をさっと見て,引き上げてしまう。作品をじっくり見て,鑑賞するということができない,行った,見た,それだけで終わってしまう。しかし,反省もしている。一緒に付き合ってくれる連れ合いに申し訳ないからである。父は寂しかったことであろう,連れ合いである母が付き合ってくれなかったからである。その点,私は幸せである,私の連れ合いが母とは違うことを感謝している。
「彼は自分自身も弱さを身にまとっているので,無知な迷っている人々を思いやることができるのです」へブル人への手紙5:2(新改訳)

ポインセチアの赤   石渡 路子

 ポインセチアの鉢が花屋さんに並びますと,もう,すっかりクリスマスです。赤の葉が緑の葉に映えて,あざやかです。どうして,クリスマスにポインセチアなのでしょう。
 クリスマスにちなんだ話は沢山あります。大石邦子さんの本に書かれている話ですが,こんな話があります。
 一羽の小鳥をかわいがっている貧しい青年がいました。小鳥は,この青年に恩返しをしたいと願っていました。青年は一人の女性に好意を持ち,クリスマスの夜を一緒に過ごしたいと思い,その女性に申し込みました。すると,彼女は赤いバラを持って来てくれたら,と答えました。青年は貧しくてバラを買うことができませんでした。それを知った小鳥は,なんとかして,赤いバラを手に入れようとあちこちのバラに頼みました。季節も良くありません,赤いバラなどありませんでした。ところが,なんと,青年の部屋の窓の外に掛けてある鉢が赤いバラであることが分かりました。さっそく,小鳥はそのバラに頼みましたが,この寒い時に花を咲かせるのは無理だと断られます。それでも,小鳥が熱心に頼むので、ついに承諾します。ただし,血を注いでくれないと咲けないと言うのです。小鳥はバラのとげに体を刺します。バラがもっと血をと言うので,小鳥はもっと体をとげに突き刺し,沢山の血を流し,ついにその場で死んでしまいました。翌朝,クリスマスの日,青年が窓の外を見ると,一輪の赤いバラが咲いていました。喜んで,そのバラを切り,彼女の所に持っていきました。ところが,彼女は,ほかの男性と出かける所で,青年のバラを受け取ると,道に投げ捨て,馬車に乗って行ってしまいました。青年はあきらめて,帰って行ってしまい、道に一本のバラの花が残されました。
 大石邦子さんも,この話の意味が分かりませんでした。ただ悲しいだけで終わる話しだからです。
 小鳥が流した血,命を捨てて流した血は,イエス・キリストが十字架の上で流された血を思い起こさせます。赤いバラの花を見て,この小鳥のことを思う人がいたのでしょうか。教会の十字架を見て,イエス・キリストのことを思う人がどれだけいるのでしょうか。
 「御子イエスの血によって,あらゆる罪から清められます」ヨハネの手紙1 1:7
 ポインセチアの赤い葉を見る時,十字架の上で血を流されたイエス・キリストのことを思い起こしてください。そして,12月24日(木)夜,教会を訪ねてください。イエス・キリストのお誕生を待つ礼拝が行われています。

悟りの世界と迷いの世界
               近藤 隆二

 仏教の教えに十法界があり,地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天上の六つを迷いの世界と言われています(六道輪廻)。六道の共通点は自我欲望(自己中心)の心であります。
 次に声聞,縁覚,菩薩,如来を悟りの世界(四聖道)と言われています。先ず仏教の教えを聞き理解をして(声聞)仏(お釈迦様)にご縁を得て教えを実行していく(縁覚)実行しながら一般の人々(衆生)に教えを説き衆生済度をする人(菩薩)モラロジーの教学では最高道徳を実行しながら他者に働きかけ人心開発救済する人を菩薩業と言われます。自分だけ実行して自分だけ幸福になりたい人(縁覚)が菩薩業に目ざめて人様にも幸せになって頂きたいと他者に働きかけるようになった時,その人は救われかけている。
 最高道徳の格言に「他を救うに非ず,己を助くるに在ることを悟る」とあります。廣池千九郎博士は「道徳の発生の原理から見るももしくは今日道徳実行の実際上の有様から見るも,道徳の実行は自己の幸福を生み出すためであって他人の幸福を造るためではないのであります。この基礎的観念があってはじめて道徳の実行に力が入り,且つ道徳を実行して高慢にもならずますますその品性が尊くなり得るのであります。」と道徳科学(モラロジー)の論文9冊目292頁に解説してくれてあります。
 仏教の十法界にもありますように如来をめざして己の品性完成の為,菩薩業に努力精進をしたいと思います。

宿泊学習に行ったこと  笠原 彩加

 今年,10月28日から29日まで,第一小学校と撫養小学校の5年生の団体でむぎ少年自然の家で宿泊学習がありました。一泊二日だったけれど,いろいろな活動,出来事がありました。
 一番初めのつり活動では,班ごとにわかれてつりをしていて,私の班は一番つれるところでつり活動をしました。その近くにはねこがいました。
 私はねこに一番近くのところでつりをしていました。一匹目,二匹目とつれている時,三匹目ぐらいのときに,魚をとろうとかまえていたねこが,そのつれた魚を引っぱって,私は何もできないまま魚はとられてしまいました。その時の思いはとてもくやしくてたまりませんでした。
 その次のつりの時は,友達に場所を交かんしてもらいました。その後,四匹五匹とどんどんつれてつり活動は終わり,いろいろな魚がつれました。
 私は二回目だったけれど,六匹もつれたのは初めてだったので,とても嬉しかったです。
 その後もいろいろな活動があり,とても楽しい一泊二日でした。またきかいがあったら,むぎ少年自然の家に行きたいです。