徳島市民クリスマス    相原 詩恩

 12月13日(日)に,あわぎんホールで「徳島市民クリスマス」が行われた。会場の入口へ行くと,人がたくさん並んでいた。私は,来るのが二回目だったので,今年はどんな人が来るのかなぁとわくわくした。会が始まって,最初にクリスマスの歌やキリストの歌を手話といっしょにしていた。私も,前でしている人のまねをしながらしてみた。以外に簡単で,しやすかった。次は,NHK教育番組の歌のお姉さん森祐理さんが出てきて,楽しく歌を歌っていた。それに,キリストのお話をしてくれたりした。映像といっしょにお話をしていたので,とても分かりやすくてキリストのイエス様の事がよく分かった。会の終わりには,「きよしこの夜」を歌って終わった。とても楽しくて,キリストの事もよく分かったので,行って良かったなと思った。

書写で賞をもらったこと   笠原 彩加

 私は,夏休みの宿題で習字を書いて2つの賞をもらいました。
 1つ目は,第六十一回県下競書で準特選をもらいました。
 2つ目は,第五回徳島県こども美術展「特別企画作品展」で優秀賞をもらいました。
 2つ目の優秀賞は,「あわ銀ホール」と「キョーエイ鳴門駅前店」で展覧会がありました。
 どちらの展覧会も見にいきました。私の作品以外にもちがう人の作品があってみんなとてもうまかって,5年生で一緒の学年で「特選」をとった人はとてもうまくて「私もがんばって特選を採れるぐらい,もっとうまくならなあかん」と思いました。
 これからも習字をがんばりたいです。
 2つの賞をもらってとてもうれしかったです。

迎 春         本多 幸代

 新しい年を迎える朝。
 いつも,今年も笑って楽しく送ろうと思いますが,人生とは山あり谷あり,一瞬一瞬の連続です。
 今を楽しみ,今を実感して,いろいろなことを体験させてもらったと,喜んで思える一年でありたいです。
 今年はどんなワクワクする事が起こるでしょうか。

山茶花 ( さざんか )          笹田 恵子

 今の季節,花好き人間の私は,辺りはまだ暗いのですが,香りでは水仙,花では山茶花を見ながら配達させていただいております。山茶花は,道路の両側に生垣のように咲いている場所,また,庭に姿良く刈り込まれた,枝いっぱいに花を付けている場所など,紅白ピンクなどの山茶花を毎日見ています。
 本によると,ツバキ科の常緑小高木で,四国,九州の暖地に自生し,高さは三メートルにもなるそうです。花後の種子は大きく,油を採れるし,材は細工物にもするとの事でした。ちなみに「草花(はな)の後を楽しむ」ドライフラワー大好きの私は,種の後に残る「殻」がとても気になります。
 「ペチカ」のメロディーにのせて……。
 ♪ 暗い中にも楽しい配達
  毎日山茶花見ながら走る ♪
 これは私が青汁を配達しながら自然に口から飛び出した替え歌です。
 仕事の為の早起きがいつもこんな具合に楽しみながら,仕事が出来たらいいのになぁ……と思います。

カニサボテン       平 澄子

 今年もカニサボテンが見事に咲きました。
 鮮やかな赤がとってもきれいなので,子供に写メで写してもらいました。あまりうまく写っていないかも分かりません。
 この寒い冬に精一杯頑張って咲いてくれているカニサボテンに感謝です。
 昨年は原稿の〆切が過ぎてもなかなか出せず,ご迷惑をおかけしました。
 今年は早く出せるように頑張ります。
 よろしくお願いします。

天の岩戸が開くとき 人は神に帰る 41
 生ききる
        三村 隆範

 輝く平成22年(2010)に到達しました。新年となり,これから始まると思うか,到達したと思うかは,同じ時点にいても思い方は違います。
 今日は,到達した日か? 始まる日か?
     人生最後の日か? 始まる日か?
     人生最高に上り詰めた日か?
 キリストや他の聖人方は,生きて生ききった人だと思います。
 十字架につけられた時,イエスは,
「はっきり言っておくが,あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。ルカ 23:43
 また,十字架につけられた時,イエスは言われた。
「父よ,彼らをお赦しください。自分が何をしているのか 知らないのです。」ルカ 23:34
 生かされている人たちは,自分が何をしているのかわからずに生きているのです。生きているという自覚はあるが,何をしているのか実際のところわかっていないのです。気がついたら平成22年に到達して,また始まるのです。目先のことでやらなければならない事があるでしょうが,実際のところ何をしようとしているのでしょうか?
 そんなことを考えるほど暇でない時代に生きているなら,がむしゃらに生きなければならないでしょう。
 何をしているのかわからずに,がむしゃらに生きようと何をしているのかが,わかって生きようと生きることに変わりはありませんが,到達したときの充実感は違います。がむしゃらに生きている時は,到達したということは感じていません。とにかくやるっきゃないでドンドン進めていくのですが,ある時,何をしているのだろう?なんでこんな事をしているのだろうと気がつく時が来るのです。その時になって迷ってしまうのです。やりながらであっても「何をしているのか?」を知って生きなければ,ただやっているだけで,やっている間はいいが,それが過ぎると困ってしまうのです。
 生きることは,大きくて深い目的があるようです。目先の事にとらわれず,そこにある,大きく広く深い目的に向かって生きようと思います。
 「14 わたしの命じることを行うならば,あなたがたはわたしの友である。 15もはや,わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。」ヨハネ15章