三木家古文書について(その14) 正平15年(1360)「出雲守時有奉南朝宛行状」は,南朝の恩賞として高越寺庄内西庄を与えられたもので,三木氏村が南朝方の有力な山岳武士として活動していた様子がしのばれる。
(訳) 正平17年9月1日北朝の光厳院は法隆寺へ行幸,次いで高野山から吉野へ幸(みゆき)し後村上天皇と会っている。当時の北朝は光厳院の皇子後光厳天皇である。 |
氷雨 天羽 達郎 汽車をまつプラットホームに氷雨降る |
日本三体随一本地 三代将軍足利義満の管領職細川頼之は,ある日都の御所に鎮座まします本地三宝大荒神に詣でたときに「我は阿波の国に移りたい。阿波はこの国の大本,そこを守らねばこの国は滅びるぞよ。」とのご神託を賜わった。早速,国許の勝瑞城三代目城主弟の細川詮春にこのことを伝えた。詮春は早速京へ上り荒神の尊像を拝み供養すると「我は御所より阿波へ参り,日本の大本阿波の国を守らんと存ずる。」とのご神託を得た。この国には三宝荒神が三社祀られている。最初に弘法大師が高野山に立理荒神社として祀られ,次に清荒神社として播磨の国へ,次がこの本地荒神である。この荒神神社は時の摂政関白,藤原道長が宮廷の中へ安置し奉ったものである。詮春は応安三(1370)年正月三日開眼法要を行い京の都より阿波の地にお迎えすることが出来た。現在日本三体随一三宝荒神王総本宮は板野郡藍住町奥野の藍住南小学校のすぐ北,勝瑞館跡から西へ約2キロです。これよりもっと古く日本三祇園の八坂神社(スサノウ命を祀る)が宍喰町にあるのはご承知のとおりである。 |
覗覘
魏志倭人伝(5) 山田 善仁 その年(景初二年)の十二月,詔書して倭の女王に報じて曰く。 |
今年も,全てを感謝の心で 2010年寅年,明けましてお目出度う御座居ます。私は73歳になりました。元気にお正月を迎える事が出来ました。有難う御座居ます。
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