本多 幸代

 春の日ざしの中,桜の花のたよりが聞かれる。幾歳になっても,桜の咲くのを楽しみに待つ心。桜は美しい。つぼみの桜,満開の桜,風に散る花びら,風情がある。
 桜の花が咲くと心身共に軽やかになる。寒い冬を,じっと耐えて来たからだろうか。
 又,桜の頃には,学生時代をも思い出します。友達大勢で桜のトンネルを自転車で遠出をした思い出。若さがあふれて夢と希望で一杯だった,あの頃。
 我に返って,今は今の楽しみも,まだ一つ夢もあると,現実に返る。
 今年はどこの桜を見物に行こうか?

桜の下で           平 澄子

 寒い寒いと言っていた冬もようやく終わり,桜の季節がやって来ました。
 今年は春先に雨が多かったので桜の開花の時期はどうでしょうか。例年より5日〜1週間くらい早いとも言われています。
 職場の帰り道,昭和公園を笹田さんと歩きながら桜の木をながめています。
 この木は,あと一週間くらいで咲くとか,これはまだまだやなあとか,主婦の毎日は忙しいけれど,少し時間をとって,せめてこの時くらいは,ゆっくりとおいしいお弁当でもいただきたいですね。
 満開の桜の下で……。

朝のごあいさつ(2)   笹田 恵子

 桜が美しく咲く頃となりました。
 蕾も花も花の後の若葉も,とても美しいと思います。ただ毛虫だけが苦手です。体中毛虫のおかげでジンマシンになったことがあるからです。
 さて,わたしの「朝のごあいさつ」は,お地蔵様だけに限りません。第一に配達先のお客様。こちらから「おはようございます」と挨拶すると,「早いから大変やなぁ……」「ごくろうさん」「ありがとう」などと,とても嬉しい声をかけていただきます。また,新聞配達や早起きの方に出合った時も声をかけると,「おはよう!」と言葉を返していただきます。そしてまたまた,私の心はほっこりと暖かくなり,「ストレス解消!」と単純なのです。

天の岩戸が開くとき 人は神に帰る 44
 信 仰 を持つ     三村 隆範

 多くの人は信仰を持つと言うと,特定の神や仏を信じて,その教えを尊びかた苦しい禁欲生活をしなければならないのではないかと想像して,「信仰」という言葉を聞いただけで,後ずさりしてしまうようです。
 私は,特定の信仰団体に属しているわけではありませんが,信仰を持つ事は,人間にとって大事なことであると,最近思うようになってきました。
 「信仰」も「信心」も同じ意味ですが,それは,宗教者だけが使用する専用用語ではありません。また,神仏だけに使用する言葉でもありません。
 では,なぜ信仰を持つ事が大事なことであるかと言う前に,信仰とは何か?何に信仰を持つか?について書いておかなくてはなりません。
 「信仰」とは,字のごとく信じて仰ぐ事です。信じて仰ぐことですから,それは目標が定まっているという事です。さらに言えば,高次,あるいは不変,普遍の目標設定がされている事です。
 つまり何を目標設定して生きているかということです。神仏では,目標がぼやけ,はっきり自覚できません。信仰を持っていても迷いの日々です。

イエスは「父よ,彼らをお赦しください。
      自分が何をしているのか知らないのです。
               ルカよる福音書 23-34

 目標がわかっている人は,すぐ幸せに生きる事が出来,そしていつも幸せで暮らせます。つまり,幸せに生きる人は,いつも目標が見えて,その中にいるのです。ですから信仰がなければ幸せになれないと言っても過言はないと思います。信仰のない人は,悩み苦しみの日々です。幸せに暮らす人は,いつも喜んで生きているわけです。いいかえれば,喜びを表して生きているともいえるでしょう。
 神道では,「言祝(ことほ)ぐ」で,仏教でいえば「声明」でしょうし,キリスト教で表現すれば,神を「賛美」して生きることです。
 世の中の人がどう生きようと,まずは自分が,幸せに生きなければ,生きていることに何の喜びがあるでしょうか?
 何もなくても,今すぐ自分が幸せになれるのは,自分自身が持っている信仰の力です。

〜心に愛がなければ,どんなに美しい言葉も,
相手の胸に響かない〜【聖パウロの言葉より】

とラジオから流れています。