普通とは凄い事,有り難い事      橋本 節子

 ズキン!! 一瞬,首から肩,右手にかけて激痛と痺れが……。
 ハッと我に返った。
 夜気持ち良く転寝をしながらテレビを見ていて,主人と息子が話をしているのを聞いていた。
 いつしか大きく船を漕いでいたらしく,首が ガクン ( ・・・ ) と後方へ反り返ってしまった。
 息子も「ガチッと云うた!」と,驚き顔で私を見詰めていた。
 そこで主人に一喝され「脊髄を損傷したら,半身不随に成って,寝たきりに成ってしまう事もある。」
「今,喋っていたかと思うといきなりイビキをかくし,呆れ返る。」
「仕事に行っている頃は疲れをとるからだと思ったが,未だにこんな状態だ。」と息子に云われる。
 私はすぐ安静にして床に入り,首を動かさないようにして寝た。
 翌日,少し肩や首が痛かったものの,大丈夫だった。もし,不随に成っていたらと思うと,さっとトイレに行けて普通に歩けた事がとってもうれしくて有り難かった。
 それ以来,転寝を二度と繰り返さないようにしている。

覗覘 ( してん ) 魏志倭人伝(7) 山田 善仁

 「 後漢書 ( ごかんじょ ) 」には,「大倭王は 邪馬臺 ( やまい ) 国(邪馬惟は音の訛なり)に居り, 楽浪 ( ナンナン ) ( キョウ ) (今のピョンヤンとソウルの中間附近に有った)はその国(邪馬臺国)を去る万二千里,その(邪馬臺国)西北界,拘(狗)邪韓国を去ること七千余里」とあり,「 魏志 ( ぎし ) 」「 魏略 ( ぎりゃく ) 」の記す,郡より女王国まで万二千余里と同じ距離である。
 唐の史官 房玄齢 ( ぼうげんれい ) (578〜648)が著した「 晋書 ( しんじょ ) 」には,「魏の時,通好する三十国の総戸数は七万戸」と記し,「魏志」の「邪馬壹国は七万余戸可り」と同じである。
 故に,使訳通行する三十国と女王卑弥呼の居る邪馬壹国とは同じである。
 「魏志」11巻の「 国淵 ( こくえん ) (魏の内務官僚兼武将)伝」に「 破賊 ( はぞく ) 文書(軍事書類)は ( もと ) ,一を以って十と ( ) す(10倍する)」と記されている。軍事で10倍することを ( ごう ) ,或いは 露布 ( ろふ ) ( あらわ ) に布告すること)と言い, ( ) とは,皇帝が人民に下す文のことで,公表されるものを言う。
 そうすると,万二千余里とは10分の1の千二百余里であり,これも「三国志」に秘められた共通の筆法である。
 実数はいくらなのか。三国志の時代(魏西晋,220〜273),一里は434.16mである。したがって,帯方郡から狗邪韓国まで7000余里とは,10分の1の700余里で約303.9kmであり,帯方郡から邪馬壹国まで12000余里とは1200余里で約521kmになる。
 ◎「南至,邪馬壹国,水行十日,陸行一月」とは,どれ程の距離か。
 「 孫子 ( そんし ) 兵法 ( へいほう ) 」(孫子すなわち 孫武 ( そんぶ ) ( せい ) 出身で紀元前500年頃の人で兵法書「孫子」十三篇を著した)では,一日の行軍を三十里。「唐の公式令」では,馬は七十里,歩は五十里,車は三十里。とある。
 魏晋の時代はいくらか。「魏志」の「明帝紀」の景初二年(238)の条に, 洛陽 ( らくよう ) から 遼東 ( りょうとう ) までの「道路は 廻阻 ( かいそ ) にして四千余里」の行軍を,将軍司馬仲達が「 ( ) きに百日, ( ) めるに百日, ( かえ ) るに百日」で足りると記されていて,1日40里が規準と見なされる。(公の知る所は軍事機密で無いから,この文は 誇大 ( こだい ) で無く実数なのである)
 故に,「陸行一月」とは,40里×30日で1200里となり,邪馬壹国までの実数距離が達成されたわけで,「水行十日」が余ってくる。と言う事は,「帯方郡より南の邪馬壹国へ行くには,陸行の距離にすると30日。水行の距離にすると10日を要する」となる。したがって「南至, 投馬 ( つま ) 国,水行二十日」は,「帯方郡より南の投馬国へ行くには,水行の距離20日×120里の2400里で,実数1042kmを要する」となる。
 本音は,魏の役人は船で帯方郡から海岸に ( したが ) って狗邪韓国( 釜山 ( ふざん ) 附近)に到り,そこから島を旋り周って伊都国に到着した。 末盧 ( まつら ) 国には,官,副官の名が記されて無いと言う事は,寄港せず,一大率を置いて有る最終地伊都国へ直接船は向かった事になる。そこから, 差錯 ( さしゃく ) せず,文書, 賜遺 ( しい ) の物を女王に伝送した。
 故に,「郡使の往来 ( つね ) ( とどま ) る所なり」や「 周旋 ( しゅうせん ) 五千余里 ( ばか ) ( ) り」が理解出来る。
 この三国時代,特に魏と呉は遼東において, 覇権 ( はけん ) を争い, 諜報 ( ちょうほう ) 合戦でもあり,敵に対し誇大に表現せねばならなかった。呉を挟撃する為にも,呉に寝返った遼東の 公孫淵 ( こうそんえん ) を景初二年八月に亡ぼし,三韓と倭国を属国としたのは将軍司馬仲達の手柄で有った。すぐさま倭国が朝貢するのも,司馬仲達( ( ) )の権力が,又,倭国の ( したた ) かさが見てとれる。
 中華思想は,世界の果てから使節団が来る 遠夷 ( えんい ) 朝貢 ( ちょうこう ) を最も喜び,世界の中心が中国で在る事をこの百年前まで誰も疑わ無かったし,高度な文明も築いて来た。
 倭国はその後も朝貢し,中国を後盾に韓半島及び 高句麗 ( こうくり ) に食指を伸ばしている事は,その後の東晋王朝や宋王朝の記録(倭の五王)が物語っている。

五年生を終えて     笠原 彩加

 2010年3月24日(水)で,五年生が終わりました。五年生はいろいろな事を経験した一年間でした。
 春には,委員会をきめ,私は「さいばい」委員会になりました。花に水をやったり,肥料をつくったり,花を植えたりしました。初めての経験をした「さいばい」委員会でした。
 夏には,プールそうじをしました。去年は,プールの周りをそうじしただけのプールそうじでしたが,今年はプールの中をそうじしました。学校のプール時期が終わると,そのままなのでとてもきたないです。まず最初に水ぬきをしました。次に,床と横のイスみたいな所をみがいたり,こすったりしました。六年生と半分ずつしてそうじしました。時間はどれくらいかかったかわすれたけれど,終わった時は,スッキリした感じでした。
 秋には,運動会があり,六年生と五年生は,片付け係などの仕事などがありました。私は,「招集」係をしました。一組と二組が,どこをやるかをきめて,仕事をしました。初めてした仕事だったので,大変だったしわからなかった事もあったけど,いい経験になりました。
 冬は,六年を送る会は,全部五年生が仕事をしました。卒業式では,全部のいすならべをしたり,体育館をぞうきんで全体をふいたりしました。
 この一年間は本当に楽しい事もあったし,つらい(大変な)事もあったけれどいい一年間でした。
 六年生では,大変な事がもっとあるかもしれないけど,がんばりたいです。

男系      東京古事記研究会 室伏 聖司

 古事記の国生みで,なぜ「女人先に言へるは良からず」か?
 この物語は,自分達の民に何を教えてるのか?
 勝手に自由に想像してみました。
 イザナミ(女)がヒルコと淡島の現地で,島民との間に子供を産んだとする。イザナミ祖先の男系は絶たれる。
 イザナギ(男)が,沢山の島で,島民との間に子供を産めば,イザナギ祖先の男系は継承される。
 男系を大切にしてきた日本。
 男達よ!外に出て,男系を継承していけ!という事では?

人を慎む           山田 章

 私は今年73歳を迎えた。一昨年,病気に倒れて一ヵ年苦戦苦闘する事になった。
 人間は(自分は)良い事だけしか人生を見る事が出来ていなかった。自分の悪かった行為などは一つも見る事が出来ておらない!! 神様は,その差額として知らせる為に病気と云う「罪」を与えられたのだと深く感謝,反省する事となる。
 所で,弱者の身になって物事を知る事の大切な事を,教えて頂く事となった。
 瀬戸内寂聴さんは,ナルト・サンガで「青空法話」をした時に,次の様な事を云われたと「鳴潮」の欄に有った。
「心の病む若い人が増えているのは,大人の責任」「子供がいじめられても気がつかない親がいる」「文化ではおなかが起きないと云う政治家がいるけれど,文化をないがしろにする国は必ず滅びます」「自分以外の誰かを幸せにするためです。そう考えれば,この世は生きるに値すると思う」
 人生を弱者の身になって判断,考えられると,色々な事が気付く。人(我が身)を慎むとは,病気が回復して有難い毎日を感謝しております。