季 節           本多 幸代

 立秋も過ぎて,徳島の阿波おどりが終わると,夏も終わりのはずなのに,雲ひとつない空,照りつける太陽,街路樹も心なしか雨が欲しそうです。
 「暑いネ」が挨拶の言葉になっています。日が落ちた頃,外に出ても昼間の暑さで,道路は蒸し返っています。
 でも稲は色づきはじめ,耳を澄ますとどこからか虫の声が聞こえて来ます。暑い中にも次の季節が待っているのを感じます。
 でも明日も,暑いだろうなあ。

稲とテッポウ百合   笹田 恵子

 稲の穂が頭をもたげ,早くも収穫期を迎えようとしています。今年もおいしいお米を届けてくれる農家さん,感謝です。
 最近,配達道では,真白で涼しげなテッポウ百合をよく見かけます。テッポウ百合も,稲の穂のように,花首を下方へ垂らし,楚々としている姿が印象的です。でもその茎は真っ直ぐに伸びて凛としています。
 私も,百合の花のように,芯はしっかり,誠の意味で奢りのない人間になりたいなあ……。難しい事だけど。

その後の刀豆        平 澄子

  刀豆 ( なたまめ ) の苗をいただいてから1ヶ月半が過ぎました。
 今日(8月18日)現在で刀豆15cmです。
 次々と白い花が咲いて,あっと言う間に3個も房が出来ました。
 初めての事なので,とても楽しみで毎日見るのが日課です。
 さて,我家のは何cmのびるかな!

天の岩戸が開くとき 人は神に帰る 49
誠 「光あれ」       三村 隆範

 初めに ( ことば ) があった。 ( ことば ) は神と共にあった。言は神であった。この言は,初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので,言によらずに成ったものは何一つなかった。   ヨハネ福音書  1-1・2・3

 ヨハネ福音書の冒頭の言葉である。言葉通りに読めば「言葉が成った」という「誠」の文字そのものである。
 「誠」とは,事実の通りであること(広辞苑三版)と書かれているが,人間のいう「誠」は,ウソでない事とか,真実である事,本当である事とか,誠意がある事と,善である事に重きを置くようになる。
 「誠」とは,事実の通りであること。事実を事実としてすなおに見ればいいのだが,人間は何が起きても「良し」と云うものではない。すべてのことを善し悪しと見分けてものを判断する。そこから悪が始まり,苦の世界に迷い込んでしまうようだ。
 神の見る世界は,一つ。事実そのものであるが,人間の見る世界は,事実を善悪に分けて見る二つの見方,その二つから派生して無限の見方が現れる。それは,一つの事実から広がる妄想の世界だ。
 起こったことを「誠」と取らず,「善か悪か」と判断する。そして都合のよい事が起こった時は,「誠」が起こったとみる。すべて自分が基準だ。
 「光あれ」と神が言われ,あるものが見えるようになると「神はこれを見て,良しとされた」と旧約の最初,創世記の1章4・10・12・18・21・25に6度書かれ,最後に人間が生まれた後に
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ,それは極めて良かった。夕べがあり,朝があった。第六の日である。」旧約 創世記 1- 31
と書かれている。
 人間が読むと「神が創った最初は,悪いものは,何も無かった。」と読むが,文字通りに読むなら「神はお造りになった。すべてのものを御覧になり,それは極めて良かった。」と書かれているのである。すべてのものは,今と同じようにあったが,神は,悪いと見ず,「良し」としか見なかった。
 ヨハネ福音書 1-4・5は,続く。
  ( ことば ) の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。すべての中に光があった。

 阿波では,昔から・・・踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らな そん そん と歌う。