日本国の民主主義社会においては,個人の自由と尊厳が守られ,多くの人々の意思を反映させるために多数決の原理がとられています。しかし自分さえよければよいという精神で行動したり,他人の言動に一定の見識もなく,しっかりとした考え方,見方もせず,ただ他の説にわけもなく賛成するのでは,民主主義は成り立ちません。
 一人ひとりが自己の言動に責任を持ち,他人を尊重し,相互に協力して行動することが重要です。
 また民主主義を真に生かすものは,権力や強制力を伴うものでなく,質の高い道徳です。
 指導的な立場にある人は,事を決定する場合,つねにすべての人々の安心と幸福をはかるという神の意思を基準とすべきです。隣国が多くの国民の心が一致しない国策を起こし,他国を苦しめてまで自国を飾り,武力や威力でおどしてまで国土を拡大し,自国だけの国益を成就しようとすることは,民主主義のわが日本国は,決してしないのです。なぜならそれは,品格の高い国柄だからです。

いじめについて考えて   相原 詩恩

 いじめについて学校で話し合いをしました。先生が話をしてくれた中に,いじめの被害者でそのために亡くなってしまった大河内清輝君の話を聞きました。私は清輝君のような子が自分達のクラスにいないようにするための事を考えてみました。一つ一つの言葉の意味を深く考えて,言っていいことと言ってはいけないことをちゃんと区別して,人に伝えてる。簡単な事だがとても大事でもあるので,これからも気にして話していこうと思います。

和みの天使達       大西 時子

 お隣の猫ちゃんは三匹の赤ちゃんを産みましたが。三匹とも大中小と成長速度が違うのがおもしろいです。
 「大豆」はしっかりと逞しく成長。
 「つむぎ」は唯一女の子でそれなりに成長。
 「ゴマ」は一番ちっちゃくてひ弱,手足・尻尾がか細くてとても同時に生まれた兄弟とは思えません。
 で,兄・姉・末っ子と勝手に位置関係を決めた訳ですが,このゴマ君,お兄ちゃんの「大豆」やお姉ちゃんの「つむぎ」のような警戒心は全くなく我が者顔で事務所に出入りし,スリスリと甘えて来て,ベッドに畳んだフカフカ毛布で眠り込んでいたり,まだまだお母さん猫と共に家族単位で行動する兄姉に比べ,結構平気で単独行動をするおもしろい子猫ちゃんなのです。
 事務所の屋根がドタドタと騒々しいと思ったら,なんと何処から上がったのか「大豆」と「つむぎ」の姿。な,なんとあのチビちゃんの「ゴマ」の姿も。
 私の顔をみて下に降りたい様子。
 危ない危ない!! と慌てて脚立代わりに事務所の椅を取りに行こうとしたその瞬間,なんと「ぎぃやぁ〜」とばかりにモモンガよろしく手指をおっぴろげて屋根から飛び降りたではありませんか。だ,だいじょうぶか??
 マドちゃん(事務所の飼い猫)なら,絶対できない芸当です。先ず屋根にあがれないだろうし。
 何て言おうか,いつでも親の保護のいりそうな虚弱な体で,ビィビィと一番騒々しく泣きますが,根っから応揚で,人を疑わず,生半可な気遣い(猫にそんな)というか,逆に言えば我執(猫にそんな)もなく,意外と蛮勇はあって,ホントおもしろい子です。
 姉の孫に三人の子供がいますが,ちょうどタイプ分けするとぴったりこの猫兄弟に当てハマる……………。なんていうと怒られる。
 しかしこのチビ猫「ゴマ」と姉孫「利恵」はそっくりだ。ほんとびっくりするくらいそっくりです。
 ……………って,こんな観察をするのも日々の和み♪ 因にお母さん猫の名前は「かすり」。
 外は雨になりました。

医学界は日進月歩   橋本 節子

 最近の外科の治療・処置が今は,私の子育て中の頃に比べ,随分と変わって来たなと思う事が2度有りました。
 始めは一歳を少し過ぎた孫がイスから転倒し,上瞼の横を1cm位い切り,しばらく血が止まらないので,近くのお医者に行き診ていただいた。
 受付で,脳外科で受診という事に成った。
 若い男性の医師は「腫れては来ますが,お岩さんのようにはならないと思います。万一嘔吐等状態が急変しなければ,これで処置はなにもしません。大事な事は傷周辺を毎日きれいに清潔にする事です。」と……。
 「えっ!!」と声には出しませんでしたが……。
 すると「最近は手術をした後でも消毒はしていないのです!」と説明して下さった。
 それから薬なしで一週間余りで傷跡は一本の線として残っているものの,すっきり治ってくれました。
 そして2度目。先日,40度近い熱を出し,かかりつけの小児科医さんで受診した時の事でした。
 ちょうど足の親指の爪と身の間が化膿し,周辺がヤケドしたかのように赤く腫れ,水疱が出来ていたので……。
 一緒に診ていただくと「ひとりでに縮んで来るのを待ち,決してさいたりしないように……」「自然にさけたら水道水できれいに石鹸をつけて洗ってあげて下さい」との指導でした。
 又もや「えっ!!」
 しかし,それから3日目,ほんとうに小さく縮んで少しずつ治りつつあるのです。
 私達が子育て中の頃は,すぐ消毒,切開,膿出し,塗り薬と……。なんとなく記憶していたのですが……。
 今,若い男女の医師が自信を持って指導して下さるのを半信半疑ながらも,次第に時間をかけ,快復する現実を見るにつけ,医学界は今やどんどん進化していると感心しました。
 これは子守りする上で何か良いヒントをくれたようです。
 私自身も,古い知識のまま現実を見ていない私が今居るという事を知り,反省しました。

木屋平三木家の伯父から学んだこと(1)    天田 弘之

 私は今七十六歳の歳を生かせてもらっている。
 昭和二十三年私が十四歳の時父が入院中兄弟は母の里三木家にお世話になるようになった。その時から私の人生の方向が決まっていたように思う。
 私にとって伯父(三木寛人)は父親的存在であった。三ツ木小中学校の校長で村内の子供の教育に当たっていた。背丈は大きく一見飄飄とした一面があり,語ることばは低い声で重みがあり,どことなく威厳があった。その後,家に伯父が来ますと弟達は自ずと正座して雁首そろえて座るのが日常であった。
 人は人間関係の中で人間を見ながら大きくなっていく。父母からの影響は勿論だが,今考えてみると伯(叔)父,伯(叔母)母の影響は何かれにつけ大きく,無意識の内に心の中に沈澱し,何かのはずみに意識としてうごめいて出てくることがよくある。両親・親類こそは,子供の教育の原点であり,大切なことは感化の力であると思う。私は伯父の感化を大きく受けて現在に至っている。母とは異質のものがある。
 昔から子供は親の言うようにはしない,するようにすると言われている。伯父は人の話をよく聞き,よいと思えば自分も一緒に為しながら,ことの理を話してくれた。中学三年のときだった。下から食料のはいった袋を おい台 ( ・・・ ) に縛り付け背におうてゆっくりと坂を登る途中一休みした時,「弘之ちょっと上を見てみな」といった。見上げると段々畑が山頂まで続いていて石垣がきれいに段をつくっている。田んぼはどこにもない。女の人は傾斜のある畑の土を下から上に鍬ですくい上げている。土が滑っているので急なところは何回も土あげをしなくてはならない。「山の仕事はきつい。ああやって昔から生きていくために永々として暮してきた。豊かな生活であったとは思えんわなあ。三木家も決して裕福ではなかったと思う」と話しながら おい台 ( ・・・ ) に手をかけて「村の人が子孫を永続させてこれたのは,生きる情熱があったからこそだ!!」と力を込めて言った言葉が今でも耳底に残っている。
 もう一つ高校時代になって大変重要なことで開眼したことがある。私の先祖は江戸時代に三木家の次男長兵衛が分家している。以来墓地には五十基近くの墓がある。子供の頃には竹で花立てをこしらえていた。伯父は毎年竹を竹藪から切り出して竹の節を中程においてその端をナタで斜めに切り花立て100本を手伝ってくれたものだ。
 さて墓所に入ってから一つ一つの墓の前で「この人はこうだった」とぼつぼつと話してくれた。はじめて知る。江戸時代中期に三木に代わって天田が庄屋役を受け継いだ。その後庄屋三代目の武乃丞の時代に,三木家の父と長男が続けて急死し家の存亡に関わり,武乃丞が次男恒太を養子にして自分が後見人となって三木家存続の請願をした話を聞かされる。伯父がその時武乃丞の墓を両手でさすりながら感慨深そうに「この人が三木家を救ってくれたんだ」と話してくれた。「今,天田のことを心配せねば,先祖に申し訳がたたん」と言われた。
 それ以来,墓掃除に行くと先祖への“懐かしさ”という情緒にひたるようになった。忌部に関する話を聞くのは私が高校三年になってからのことである。