大雪に感謝        橋本 節子

 大雪が降ったお陰で感謝出来た事がいくつもありました。
 それは孫三人のそれぞれ幼稚園・保育所のお迎え時間が迫ってくる中で,益々雪が降り続いて積って来た時の事です。
 車でのお迎え,スリップ事故が恐ろしいな!と,空と時計ばかり見てタメ息をついていたら……。
 チャイムが鳴って,お隣の若い奥さん,「今日は主人が家に居るので,純平ちゃん,ウチの子と一緒にお迎えしてもいいですか?」と,遠慮がちに……。しばらくして,家まで送り届けて下さいました。こんな時だからこそ,御近所さんの心遣いをとても嬉しく思いました。
 雪が益々降って来ました。
 もう保育園へは歩いて行こうとした時,主人がいつになく用が早く終わったからと車を運転してすぐ行ってくれました。
 又しても嬉しい事が続きました。長男夫婦二人も会社の配慮で早く帰れて,6時前には帰宅しました。子供達もたくさんの雪と,揃って両親が早く帰って来てくれたのとで,飛びついて大はしゃぎしながら帰って行きました。
 実は,私が一番大はしゃぎしたかった位です。
 そして,もう一つ感謝出来た事は,雪の為青汁が製造,配達出来なかったという事で,次の朝お休みでした。当り前の様に飲んでいた青汁が飲めずに,その日はちょっと淋しかったものの……。よく考えてみると,やはり,「毎朝作って,毎朝届けてくれるのが,ほんとうの青汁なんだな,ドクターエンドーは!」と改めてそのありがたさを感じました。
 一日お休みした次の日の青汁のおいしかった事,御砂糖が入っているのかと思う程甘くて新鮮でした。
 あれもこれも雪が降ってくれたお陰で感じる事が出来た事,当り前とはすごい事だったんですね。

ありがたメガネをかけよう!  岡本 光司

 昇る朝日はキラキラと
 頬にさわやか朝風が
 鳥は唄い花開き
 山も笑ふよ草も木も
 歓び満つるアリガタメガネ

 そう…
 お金もかかりませんし
 毎日倖せが…
    未来に光が…
       と思ふのです。

木屋平三木家の伯父から学んだこと(4) 天田 弘之

 伯父の生涯の実績の中で偉大と言える功績は「木屋平村史の編纂」であったと思う。これには10年の歳月と精力の限りを費やしている。厖大な原稿を見た時,伯父の姿に敬服したものだった。表に坐り半紙を名刺より大きく切った紙片のメモ書きを机に並べてカルタ取りのように並び替えながら,現場での聞き取りや見た記録・写真などを番号をつけて整理していた。「何しとるんですか」と尋ねると,その日の記録を忘れないうちにまとめて原稿にする方法で,歴史家の飯田義資先生に資料整理の仕方の1つとして教えてもらったものだと話してくれた。
 これは私も教材研究の記録の整理に大いに役立ち,更には発想の手がかりにもなった貴重な方法である。
 伯父との関りについて記憶や記事をもとに書いてきたのだが,私の自叙伝の断片であると同時に,書いているうちに,ふと伯父の人間像が浮かびあがってきていることに気が付いた。今この時点で二つの課題を見つけた。1つは伯父の人間像の彫り出しである。もう1つはおこがましいが,自分史或は自叙伝らしきものである。できるかできないか別にして,こんな思い着きは,三村隆範氏の「波阿波」へのさそいがあったからだと改めて感謝するばかりである。
〈…たぶん,伯父さんの真骨頂は木屋平村史にあったと思われる。伯父さんの俗気のない古武士のような風貌や人格的な偉大さ,あるいは手腕等々は,記憶が薄れ,世代が変わってゆけば消えてしまう。けれども必然性と情熱を傾け,積み石を積みあげてゆくようになされたこの村史の作業は,どんなに世代が変わろうと消えてゆくはずがない。もしこの村史がなければ,私にとっての木屋平村は,ぶ厚い落葉の下に,あるいはどこかの博物館の資料室に永遠に閉されたかも知れないのである。
 私は木屋平村史を伯父さんのかたみだと思って大切にしてゆこうと思う。〉 昭・58・4 追悼文抜粋 (第七男 天田憲二)

『いただきます』その後に・・・ 陶久 大樹

 僕は食事する前に必ず「いただきます」と言います。もちろん手を合わせて。小学生の頃に教えられたまんまのスタイルです。映画を見ていると西洋の人は静かに祈りを捧げてますしインディアンは大地に祈ってます。食事の前には世界共通してなにかの儀式や儀礼を行ってから始めるものだと思います。食事は特別なのでしょうね。
 そして,僕の話になりますが最近では「いただきます」のあとに『ありがとう』と言う様になりました。感謝です。様々な奇跡や恵みが折り重なり,ひとつの食事にたどりついているとおもいます。その苦労やサイクルに感謝するばかりです。また『有難う』と書くように語源は,「有り難い」=「とても素晴らしいこと」が起こったときに神や仏の思し召しと喜んだことから,大きな力に感謝する気持ちを「ありがとう」というようになったそうです。
 日本において食事が出来ることは「当たり前」で「有り易し」ですが,世界中を見渡し,近くの北朝鮮や話題のエジプトを鑑みると食事どころか日々の生活もままならない状況です。日本はなんとなく平和で豊かな時代が来ていますが,「今の日本がいつまでも在ると思うなよ。」という自分の戒めも含んでいるのかもしれません。過去,現在において日本を創り,守り,育ててくれた先人に感謝して,この先もこの国を豊かに平和に営んでいけるよう,しっかりご飯を食べてもりもり働く次第でございます。
 食事の前にはきちんと手を洗い,胸の前で両手をあわせ,「いただきます」そしてその後に・・・
 『ありがとう』 感謝の言葉が最後の味付けになりますように。。

 私は7人兄弟姉妹の二男として生まれました。私の世代の家族制度において,家長は代々,長男が受け継ぎ,男子が生まれない場合には娘が婿を取り先祖祭りをするものと自然となっていました。「事を ( はか ) るは人にあり,事を成すは天にあり」という言葉があります。
 我が家,長男がおり順当に行けば,当然兄が先祖祭りをする家長となる筈が42歳事故により急逝する。当然このような状況におかれると,社会的,精神的,自然的なあり方を考えるに,どのようにすればよいかを,何を基準に考えるかが問われます。
 亡兄には妻と娘があり,私には妻と3人の子供がいる状況で,すべての倫理道徳の規範に照らして是非を判断することになりました。
 家族皆んなで相談の結果,二男である私が相原家の先祖祭りをする家長となりました。そして母を平成3年に,父を平成11年に送るその先年送った父の13回忌法要を今月(3月)に迎え,親類に案内のハガキを出したところです。
 人間は,素裸で生まれわずか100年に満たない人生を生き,何も持たずにまた一人で素裸で去って行きます。
 この法要の縁に,人間の一生のあっけなくもむなしい,生と死について,その気づきをくれるご先祖に感謝するのみ。

  ( いつく ) しみ

一切の生きとし生けるものは
幸福であれ  安穏 ( あんのん ) であれ
安楽であれ 一切の生きとし
生けるものは 幸であれ
何びとも 他人を
( あざむ ) いては ならない
たとい どこにあっても
他人を軽んじてはならない
互いに苦痛を与える
ことを 望んではならない
この慈しみの心づかいを
しっかりと たもて

   ブッダのことば
   「スッタニパータ」より