|
以前これと同じタイトルで2回ばかり鳩山首相のことを書いたことがある。今回菅総理について同じタイトルを使うとはなんという日本の不幸。
2,3日前,東北関東大震災で壊れた福島原発の上空を無人飛行機が無線で誘導され写真撮影しているのがテレビで見えた。そのとき,あれ! どうして初動のときこれを使わなかったのだろうかと思った。もう2週間以上もたっているのに。この飛行機が特殊なものですぐに手に入らないものなら,農薬散布に使う無人ヘリコプターなら幾らでも使えるのにとも思った。 3月30日の産経新聞は伝える。大災害翌日の菅総理の現場視察が初動対応を遅らせた。彼の言い分は「原子力について少し勉強したかった」そして大学教授を何人も官邸に呼び付け「セカンドオピニオンを聞きたい」ともいった。なんと言うゆうちょうな。セカンドオピニオンというなら現場を経験した人に聞け。約20年前雲仙・普賢岳の噴火の際,火砕流や土石流の危険地帯の復旧工事で技術者は知恵を絞り,まだ普及していなかった衛星利用測位システム(GPS)を活用して数キロ先からオペレーターが無人のトラックを走らせ,無人のショベルカー,無人のブルドーザーを操作したのだ。このプロジェクトに携わった技術者は「なぜこの技術を原発災害に生かそうとしないのか」と嘆いているという。今ではロボットも格段に進歩しているのだ。核防御の訓練もされていない丸腰の自衛隊員を現場に行かせ,「行かないのなら処分する」という。無知も甚だしい。
昭和47年浅間山荘事件で後藤田正晴の元で現場の指揮を直接取った佐々淳行は言う,神戸淡路大震災の復旧作業の指揮した人を三顧の礼でもって迎えプロジェクトチームを組み,どうすれば良いかを聞け。総理は「それをやれ」と号令を掛ければ良いのだと。
エコノミストの長谷川慶太郎は言う。現場の市町村役場の消滅,自治体の壊滅が痛い。被災地では膨大な実務が発生する。一面の瓦礫の山,あれを自衛隊がブルドーザーでザーッと一気にやれば良いと言うものではない。家も車も船も全部私有財産,本人の立ち合いと承諾が要る。廃車廃船手続きしないと保険が降りない。ゴミの下にある遺体を収容すれば警察が嘱託医による検死が必要,それは警察だけの権限で,それに基づいて市町村が死亡証明書を発行して始めて葬儀が出せるし埋葬許可がおりる。住民台帳も戸籍もなくなった。罹災証明書も出せない。これを作り直すだけで大変で,膨大な数の専門職が必要。素人のボランティアでは出来ない。被災地以外の自治体からそれぞれの専門職を探し出し長期に派遣しなければならない。それを統一して指揮するセンターが必要だ。地方行政の最末端のシステムを再建しないとなにも始まらない。自治もしばらくお預けだ。避難が長期になると我慢も限界になる。感染症の流行や持病の悪化,数少ない医師看護師も体力の限界がくる。いずれ死者が増え怨磋の声が広まる。外部からの組織的な強力な支援が必要だ。菅総理はそういった官を使い切れないし使う気もない。政治災害はながく続くだろう。
イデオロギー闘争に明け暮れ,揚げ句の果ては妙義山事件浅間山荘事件で人殺しをやった全共闘時代・無責任世代の生き残りが権力を握ったのが今の内閣だ。パフォーマンスだけの菅総理は無知無能総理として後世に名を残すだろう。
|
もう長い間
学校に行っていない
こんなことでいいのかと
徳島駅前でふと思う
カバンの中には
湿った厚紙が一枚だけ入っていて
教科書やノートはどこに行ってしまったのだろう
きっと今は夏休みか冬休みの終わりなのだ
もう長い間
学校に行っていない
何かを忘れてしまった患者のように
不安だけを抱えて町を歩く
駅前から元町
新町橋から東新町
籠屋町から向こうは高松や大阪につながっている
もう長い間
学校に行っていない
友達は今も学校にいて授業を受けているはずだ
先生も答案用紙を配っているだろう
でも僕のカバンには何も入っていない
教科書やノートはどこに行ってしまったのだろう
このままでは遅刻するに違いない
まだぼくは徳島駅前にいるのだ
バスに乗って行くか
歩いていくか
どちらにしても学校は遠かった
|
古事記が編まれた時代にも国勢調査があったそうで,何年かおきに住民台帳が書き替えられ,反故になったその紙は……なにせ貴重品なので……寺でらに払い下げられたとか。
その同じ時代,聖武天皇の遺品が光明皇后の手で大仏サンに奉納され,境内にいくつも並んでいた倉のひとつに納められている。
ところで,あの紙の裏に書きこまれた,そのときどきの記録の類もまた同じように保管されたそうで,のちのち,火事があると,あわてて収納場所を移し,そんなことが繰り返されて,結局,建物は一つだけ遺って千年を超える時空をくぐり抜ける。
明治になって,東大寺の古文書を調べていた学者センセーが,その裏に記されてあるものに気が付いた。
「こりゃ,当時の戸籍じゃないかっ!」
その中には,現在の葛飾・柴又にあたる地名のものもあるそうで,丁寧に探したら,ひょっとして,「寅次郎」なんて名がみつかるかも。
遷都千三百年でわいた大和奈良の,はるばるシルクロードを運ばれてきた,螺鈿づくしの楽器や,ペルシャ渡来の碧ガラスのお椀もさることながら,実は,これが正倉院のスゴサなんだそうです。
|
私たちが昨年6月から勤務するグループホームで,ノンクリスチャンであるリーダーから,家に帰れない,帰ろうともしない,帰るべき家も待つ親も無い若者とともにクリスマスを過ごしてくれないかと依頼されました。私たちは,自分たちの努力だけではなんともならないであろうとは自覚していました。が,マルコが,クリスマスの一週間前に,母親からクリスマスに帰宅することを禁止されたことも知って,私たちは不安の念に襲われました。
なぜなら情緒不安定で多動性のマルコは,もうひとりの暴力癖があり精神に深い傷を負うシモンと毎日争いを起こし,最後には,いつも殴り合いの喧嘩となっていたからです。もし私たちがギターを伴奏に賛美しようものなら,彼らは怒ってクリスマスから“神なんぞいるものか”と飛び出してしまうであろうことは容易に予期出来ました。
そして,24日が来ました。私たちが職場に着くと,シモンとリーダーが衝突していて,殴り合いになり,叫びと怒りが満ちていました。しかし,リーダーが帰ると,シモンは幸いなことに落ち着きを取り戻しました。
その後,クリスマスのためのごちそうやデコレーションの準備を若者たちと始めました。大げんかしたシモンは,私にクリスマスツリーを飾ってよいかと尋ねたので“もちろん”と返事すると,彼の顔は喜びの表情で溢れました。そして彼は細心の注意をもって,壊れやすいガラス玉など樅の木の枝にぶら下げていきました。
平和がグループホームに戻ってきました。誰もが喧嘩せず,ステレオの音量を最大にせず,クリスマスにはテレビを見ると主張していたマルコも見ようともしませんでした。クリスマスディナーの合間に読んで聞かせた御子の誕生に関する物語や証を妨害する者も無く,ルカによる福音書によるイエス様の生誕の話まで,興味を持って聴き入りました。
他の若者たちには親戚や知人からプレゼントが届いているのに,マルコには親からさえもプレゼントはなく,仲間が箱からプレゼントを喜びながら取り出すのを見ている他無かった彼は,それでもいらだつ事なく,むしろ幸福な表情でいました。
私たちにとっては,全てが終わったあと彼らが一様に言った“こんな素敵なクリスマスを祝ったことなんて今までなかったよ。これから,クリスマスは今日みたいに祝おうよ”の言葉ほど,大きなプレゼントは他にはありませんでした。
|