「生きているだけで嬉しいんだ。」と思えるようになると,それで究極です。
ある日,この世に居ると私は気がついた。
何かをしようと思ってこの世にやって来たのではない。気がついたらこの世に居た。
何をしようとして生きているのか?
そんなの決まっているじゃないか。
嬉しいんだ。喜びだ。喜んで生きていたいのだ。
しかし,人間が生きている間には,色々な事に遭遇する。喜べる事もあれば,苦しむ事に出会う事もある。喜んでばかりいられない。
ところが,その時イエスキリストが現れ,「幸いなるかな」と人類を諭した。
これらのことを話したのは,わたしの喜びがあなたがたの内にあり,あなたがたの喜びが満たされるためである。 ヨハネ福音書 15章11節
しかし,
『あなたたちは聞くには聞くが,決して理解せず,見るには見るが,決して認めない。』 マタイ福音書 13章 14節
と書かれるように,人間は,自分考えを標準,基準として判断するので,自分の基準に合わなければ,不可。合えば可とするので,その人に幸・不幸が現れる。人間は,宇宙自然の中に生きず,自分の井戸の中で生きてしまう。自分の気に入らない事が起こると,その事に合わせられないから苦しくなってしまう。
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は,新たに生まれなければ,神の国を見ることはできない。」 ヨハネ福音書3章 3節
自分に合わそうとすると喜びは無くなり,
神,自然に合わせると,いつも喜べる。
幸せに暮らす人とは,仕合せをたくさん感じる事のできる人であり,神,自然に合わす人の喜びは,大きく,永遠に広がり続くのです。