今,日本人は命にかかわる予想をはるかに超えた過大な災禍を二つ一度にぶちつけられた。惨禍に見舞われた太平洋沿岸の東北地方のすべての方々には何といってよいのかことばに絶するばかりです。マグニチュード9.0の大地震で揺れ動き,崩れ,土面が割れ,更に悪魔の海が壁の如くにせまり,巨大な力で地上のものを呑み込んだ。二万人を超す生命が亡くなった。十八米から二十米の高さの重い恐ろしい波だったと言う。
今日も私は呆然としてテレビを凝視している。何かできることないか? 東北の人は辛抱強い。涙が出てしかたがない。自然のもつ力の恐ろしさに身ぶるいする。宇宙を司る神はあるのだ。だから人間は昔から人力のおよばぬものを恐れ,崇拝してきた。
原発も制御できなかった。「福島の原発が壊れる筈がないと信じていた」と技術作業員は話していた。今日,サイバネティックス論に基づくデジタル技術を駆使した機器組織に安んじて最悪の事態を疑うことを私たちは忘れ勝ちになり,抜け落ちていることがあるのでないか。教訓として確かな挑戦をして欲しいと生意気を言いたい。
私は戦後1947年にアメリカの科学記者,W.L.ローレンスの著書『
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の暁』を思い出している。国家機密「マンハッタン計画」で原爆の発明,製造,実験(ロスアダムス),運搬,投下(広島・長崎)の詳細な記録である。日本で店頭に出て間もなく発売禁止(GHQ)になったが,それを夜を通して読み,ふるえあがったのを憶えている。オッペンハイマー博士,アインシュタイン博士,ボーア博士等:「原爆を造った罪に嘖なまれる。放射能を人類がいかに管理するか,人類の英知に託する」と書いている。
ささやかではあるけれど,わずかな物資や救援募金,被災者の健康を祈り,復興への希望を国民一丸となって助け合い,長い道程に向い心は同行二人で共にありたいと思う。
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ふと思い立ち
四国霊場 霊山寺へ
あ…… そうだ
もう 何年も前になるのだろうか
ここで この仁王さんの前で
母と写真を 撮った事を……
優しい面影が…… あの微笑みが……。
こころに浮かんできた想いを
詩
につづってみました。
御寺
の
瓦
朝日に映えて
蕾ほころび 小鳥は唄い
仏の
慈光
に つつまれて
両手をあわせる 霊山寺
ああ……
だれがつくのか 鐘の
音
が
何故か うれしくて
あふれる力 いただきて
ハンドル 鳴門へ
春風の中を……
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孫の純平が今年の4月から小学校に入学します。今は毎月の「波阿波」の投稿から「ボク『あ』って書けるようになった」と喜んでいます。
今度はその『あ』の下に「じゅんぺい」とサインを入れてみようかという話になりました。
何を思ったのか,いきなりコンクリートの上でてんかん発作か?と思うような格好をするのです。
「『じ』ってこんな感じじゃな!」
やっと人文字と分かった時には,アハハと思わず大笑いしました。
即ひらめきを身体で表現できる子供を見て凄いな〜あと感心しました。
毎日こんなたわいのない事をしてよく笑わせてくれます。
孫のお陰で毎日がとても楽しくて,一日が過ぎるのが早いな〜あと感じます。
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3月12日徳島県観光協会の観光講座で犬養の農村舞台に行ってきました。舞台では「傾城阿波鳴門巡礼歌の段」を鑑賞させて頂きました。私は初めてでしたが3人遣いの人形の動きと浄瑠璃にはいたく感動し,どうして半常設の舞台が無いのだろうかと思いました。また,大和先生の講義によると,農村舞台は吉野川より北には無くてその殆んどが南に有るのだそうです。農村舞台は庶民の娯楽と祭神への奉納を兼ねていました。藍作地帯では藍作地主がお金を出して芝居を見せていましたが,県南ではそういった金持ちがいなかったため,村人自身が自演して楽しむために村人の負担で舞台を建設したのだそうです。演技が終わり人形の扱い方,襖カラクリの仕掛けやその数41場面有るなど本当に驚きました。徳島には素晴らしい文化が有りそれを受け継いでゆき後世に引き継いでゆく人達には本当に頭が下がります。なかなか歌舞伎を鑑賞する機会は少ないと思いますが,この感動した気持ちをどうにか徳島の皆様にもお伝え出来たらなあと思っています。
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火曜日の夜7時から9時半まで,毎週恒例の「勉強会」。5時ごろにサンドイッチをつまんで,それで夜10時半ごろまで持たせました^^;
勉強の内容は種々雑多ですが,基本的に「人間について」の勉強。その勉強する内容そのものも確かに勉強になるのだが,それよりも勉強になるのが,その後の自由報告会。
これは,今日の勉強を通して,それを自分はどう受け止めたか,と発表しあうもの。
昨日は10名の参加者がいたのだが,本当に読んで字のごとく「十人十色」,おなじビデオを見て,同じものを勉強したはずなのだが,その受け止め方は千差万別。
へえ〜,あれを見てそんなことを考えたんだ〜,とか,そんな見方もあるのか,というようなコメントが,ほとんど全員の人から出てくる。
人それぞれだな,ということを改めて感じると同時に,同じ現象,同じ事件,同じ客観的事実に対する人々の反応,というのは,ことほど左様に,人それぞれで,ぜんぜん異なるんだな,ということを再認識させられる。
人間,ともすると,自分が感じたように,あるいは自分が考えたように,他の人も感じ,考えている,という思い込みを持ちやすい。
ところが,ふたを開けてみると,結果はてんでばらばらで,そこに至って,「なんで?」という疑問が出るのだが,もともとの「客観的事実」そのものの受け止め方,つまり「主観的事実」が各個人でばらばらなので,それに対する反応や対応もばらばらになる,という,ごく単純な事実を忘れがちだ。
こういったことを積み重ねると,そのうち,他の人の見方は異なる,ということを物事を考える前提にすることがだんだんできるようになるんだろう。
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