忌部 ( いんべ ) 雑考(その2)      三木 信夫

 古語拾遺に記載の各地方忌部支族の神々の内,延喜式で名神大社に任ぜられているのは阿波忌部系のみである。阿波には,阿波忌部に関する資料がほとんどなく,三木家の資料が最たるものである。阿波忌部の全体像を知る為には,安房・出雲・伊勢・讃岐など忌部ゆかりの地を調査して,外部から阿波忌部を見る事が大切である。ゆかりの地では天太玉命の名前は出なくて,天日鷲命の名前ばかりが出てくるし,祭神としての神社がある。又,先祖は阿波から渡来した忌部であると,古い地名や伝承がきちんと保存されており,その地域の人達は胸を張って地域の歴史を誇りにしている。出雲・讃岐・伊勢など中央から分かれていったとする古語拾遺の内容と違和感を覚えるのである。
 各地の忌部ゆかりの地を巡って阿波に帰ると、忌部をあまり感じとれないのは私だけであろうか。戦後以降,自分の故郷の歴史を教えられていない為に,故郷に愛着と誇りに思う事が無くなってきている今日,しかも地域の歴史への取組姿勢が自治体に依って,これほど大きい格差が生じている事に改めて考えさせられ,日本の大切なものが失われているように感じる。

 本年2月3日夜,徳島駅近くの回転寿司で一杯やっていると年配の3人組がやってきた。私のすぐ隣のカウンターに座ったので,聞くともなしに話を聞いてしまった。翌日大塚美術館を見に行くという。東京から京都まで新幹線で,そして高速バスで徳島駅に着いた。その美術館には私は行ったことがあるので簡単に説明をした。あそこは壁画も部屋も原寸大のままに復元してある。陶板に焼付けてあるので原物の色が劣化しても,そのままの状態で保持できる。一番下の地下はギリシャ時代,階が上に行くにしたがって時代が下り最上階は近代画である,など。そのうち徳島は蛸が美味しいのですよといって蛸を伊達巻きで包んだのを差し上げた。東京の蛸は塩辛いだけで肉の旨味がないのだ。話が弾み名刺交換をした。すぐ隣の男性は彫刻家その横の女性は尼僧,そしてあとの男性は観光業とこのと。そのうち古事記の話になった。件の「竺紫の日向の橘の小門の」の一節を私が唱えると彫刻家はそれを知っていた。彫刻作品を完成した折には神主に祝詞を奏上してもらうことがあるので,その部分は暗記するほど耳にしている。彼は若い頃モーターボートを房総半島館山に置き週末クルーズを楽しんでいた。彼の地「安房」には阿波に共通する神を祭った神社も多く忌部伝説があることも知っていた。この3人は美術館を見学した後,私からもう少し古事記の話を聞きたかったなあと話し合ったということだった。後ほど礼状と二冊の本が届いた。なんと松本善之助著の「ホツマツタヘ」だ。すでに絶版になっていたので,神田の古本屋で探し求めたという。
 これは日本が漢字を使う以前にあった48文字で,神代から景行天皇までの古代史を五七調の長歌形式で書かれ,古事記の元本であるという。すべて大和言葉で書かれているため,読むと何となくその感情が伝わる。

密林            サイトウ シゲジ

変わらなくてはならない
今より良くならなければならない
昨日の過ちを繰り返してはならない
今日はただ明日のためにだけある

ある日世界のどこかに
そんなことを考えている一人の男がいた
頭の中は密林のように不安が生い茂り
体の動きはぎこちなく
朝がくるたびに夜を待ち
時間はただの拷問の道具に過ぎなかった

人生を一通り生きてみて
答えがどこにも見つからなかったとき
何を信じてもいいような気がすることがある
どれを選んだって問題が解決するはずがないのだ
虚しいということが
どういう意味なのかが解ったとしても
そのことに意味はない

ある日世界のどこかに
そんなことを考えている一人の男がいた
頭の中は密林のように不安が生い茂り
体の動きはぎこちなく
朝がくるたびに夜を待ち
時間はただの拷問の道具に過ぎなかった

手のべ        琴江 由良之介

 吉野川の中流の数百年来の「そうめん」産地が,伝統の麺の太さが規格を外れているとのことで,不当表示うんぬんの指摘を受け,老舗のブランドで商いすることがゆるされなくなったと聞いていたが,「手のべ」なる品名がスーパーに並んでいた。
 さぞかし割り切れない思いだったはず,はがいたらしかったにちがいない。
 「このまま引き下がってなるものか」の一念で知恵を絞ったのだろう。
 袋の裏には,「古く江戸時代より……」と謂れを載せ,そして,もう,文句は言わさん!!,とばかり,「 そうめん ( ・・・・ ) 一束に対して約一リットルの水を……」とゆで方を説いている。
 悔しさをバネに,ギョーカイ一丸となって意地を貫いたんやナ,と思った。
 持前の腰の強さ,たしかな食感……中身は以前とちっとも変わってなかった。

私の大切な宝もの   天田 弘之

 お世話になること四十年になります。それは何の機構もなく,単純素朴な,むき出しの道具でして,長い年月の間に日本独特の単純化された形の金槌と金床です。材料になる鉄は,世界一良質の鉄鋼を産するアルザス・ロレーン地方から輸入しているそうです。硬く一般の金属を打っても槌や金床の鏡面に傷がつきません。日本人は優れたもの造りの技術を持っていて,金工の工具類を私は東京元浅草にある江戸時代からの しにせ ( ・・・ ) の工具造り店に製図して注文しています。道具自体美しい鉄の芸術品のようです。
 買いたての道具は他人のような感じですが,自分に合うよう加工して使い慣れてくると,我が手や体の一部分になり神経が通じている感がして愛着が深まります。もう魂がはいっています。
 この道具は金工のうち, 鍛金 ( たんきん ) 製作のものでして,聞き馴れない語ですが鍛冶屋さんの仕事がそうです。ついでに言っておきますが,金工には,鍛金と彫金と 鋳金 ( ちゅうきん ) ( ) もの)の三つのやり方があります。いずれも私たちの生活の中でたくさんの物が使われています。
 このところ三年程,道具を使っていません。が,アトリエ(工房)に入るとまず槌と床が目にとまり,必ずと言ってよい程金槌を手に取り鏡面を見ます。少しでも曇りがあれば,「バラ研き」をして鏡面に顔が写る状態に研いておきます。柄を手にすると「打ってくれ! 打ってくれ!」と言うのです。
 よく道具と話をしてアトリエで座り込むことがあります。殆んどの道具類は自分に合わせて使い易く加工していくのです。電動機械類,電動工具類,小さな道具類等が四十年の間にいつの間にか最小限揃ってきました。プロの人の工具のうち金床だけでも一生の間に八十本〜百本程度造っていると言われています。私も数えてみると四十本(金床)できていました。若さが造ってきた感がするこの頃です。