忌部 ( いんべ ) 雑考(その4)   三木 信夫

 祭政一致の古代では,事あるごとに神を祀って神意をうかがう事をしていた。朝廷においてこの祭祀の仕度をするのが忌部氏の役目であり,中臣氏は,神と人の間をとりもって,神の言葉を人に伝え,人の言葉を神に奏するのが仕事であった。忌部氏は,農耕集団として,あるいは技術集団として,それぞれの役割を以て地方に根をおろした地方基盤があり,忌部氏族だけで宮殿の造営を含め祭祀の仕度が出来る力があった。中臣氏の場合は,中央のみの基盤しかなく,生きていく為には,上昇志向で政治に接触を持つのもこのあたりの事情からと思われる。
 大化の改新までは,宮廷祭祀は忌部氏が差配していたようであるが,その後は中臣氏が取り仕切るようになり,忌部神道から忌部神道の一部を取り入れた中臣神道へと変わっていくのである。
 ただ中央での忌部氏は,古代祭祀をかたくなに守り,時代の変化に対応した生き方が出来ず,対等であった中臣氏の後塵を拝するようになり衰退していくのである。

 先日ひょんな事で知り合いになった彫刻家と某会社女社長兼尼さんという不思議な人と東京で会った。その彫刻家に神田の老舗「菊川」で三村さん共々ウナギの蒲焼きをご馳走になった。昔から江戸っ子の好物はウナギで,庶民の夢のメニューといえば必ずそれが出てくる。落語「宿屋の富」には,「富くじ」で当ったら,惚れた女を身請けして2人で毎日「まずお銚子が一本付いて,ウナギがあって天麩羅があって刺身があってお椀があって」の食事をするんだと夢見る人が登場する。蒲焼きとはウナギ,ハモなどを開いて串に刺し,たれを付けて焼くのをいうが,もともとウナギは縦に串を刺し丸焼きにしていた。焼き上がった形と色が蒲(がま)の穂に似ている事からその名が来たのだそうだ。関西では腹から裂くが,侍の町江戸では切腹は縁起が悪いと背中から開く。その頃から有名なウナギ屋に南浦和の「小島屋」がある。いちど行った事があるが,子連れで行き人数分のコースを注文したら,鯉こく,鯉の洗い,などいっぱいの付属物があって,メインのウナギは一人分として大きなお皿に一匹丸々焼いたのを5匹ぐらい乗せて来た。あまりの量にまいってしまった。そこは昔は大名クラスが来る所で,御付きの者に残りをお土産に持たせるため量が多いのだそうだ。
 その他関東で有名なウナギ屋で,千葉県佐原市の「長谷川屋」茨城県潮来の「清水屋」に行ったことがあるが,塩分が強すぎて徳島県人にはいただけない。霞ヶ浦のほとり潮来の西側に麻生町というのがある。今は町村合併で名前が変わっているかもしれないが,麻生の殿様は阿波から行った三好家だ。そこの診療所に昭和44年家族共々4ヵ月いたが,子孫の方とは昵懇になった。土地の人が歓迎して湖で取れるウナギでよく蒲焼きを作ってくれた。が,塩分が強すぎて参ってしまう。塩辛いのを通り過ぎて苦いのだ。ウナギの味がしないんだ。土地の人はそれがあたり前。高血圧が多いのもむべなるかなである。以前この近くに住む先輩の医者が徳島に講演に来た事があった。途中高松駅で立ち食いうどん食べたらしいが,僕の顔を見るなり「天羽君あすこのうどんはまずいね」「え!どうしてですか」「味がない」,ようするに塩分が足りないのだ。今回のウナギは塩分もほどほどでほんとうに旨かった。東京新宿区河田町には「鰻八」というウナギ屋がある。その近くに東京女子医大があり,そこの消化器病センターに僕は11年居た。その医局は「鰻八」の蒲焼きが大好きで出前を数をまとめてよく取っていた。一度うちのかみさんを「鰻八」に連れて行ったところ,霞ヶ浦で塩分の強いウナギに辟易していた直後だったので,いたく気に入ったようだった。そして「ウナギは新宿に限るのう」と言った。

忘却            サイトウ シゲジ

人間はただ偶然によって宇宙内に出現してきたが
感情を持たない広大無辺のこの宇宙にあって
ついに自分がそこにあることを知ったのである
その運命も本分もどこにも述べられてはいない
*1

思うにこの途方もない宇宙の存在は
驚異的で畏怖すべき光輝を帯びている
それほどの栄光のうちにあるが全く役に立たない
*2

説明できないことはあまりなかった
たった一つのことを除いては
計算高い奴らがそれを抛っているのは驚くべき事だったが
誰も泣いたり喚いたりはしなかった
ボールを追ったり叩いたり
投げたり打ったり蹴ったり転がしたりすることの方が気楽だったのだ
あるものをあるとは言えたが
無いものをないと言うことに気が引けたのだ
そんなことを考えることは変な奴に決まっている
仲間はずれが怖くて口を噤んでしまった

夕暮れが淋しくなかったり
宵闇が切なくなかったり
ひとりの夜が怖くない人間にはなりたくないが
仲間はずれになるのも怖かったのだ

説明できないことはあまりなかった
たった一つのことを除いては

    *1 J・モノ  *2 P・W・アトキンス

家内の病気で思う事(2) 山田 章

 此のモラロジーの勉強の賜わりと,今も感謝する出来事があります。家内が癌とわかった時の昨年の暮れの事です。代表お世話人さんを通して心の親にご報告をさせて頂きました。そうして,回復の祈願をさせて頂きました。此の時,気付きました事は,私の人生のうち47年間は,家内と苦楽を共にして送って来た思いと,又,私の人生での責任を深く感じる時が流れ,心の底から沸いて出てくる止める事の出来ない両眼からの大粒の涙が,人目もはばからず泣けて泣けて心の底から泣く事が出来ました。神に対してご祖先に対して親に対して,此の様な機会を得る事が出来ました事は,今も変わらず持ち続けられる家内の苦しみを一時でも良いから替ってやりたい思いで,側で介護を続けさせて頂いております。
 「只ハイハイとハイ上る」とは素心の心です。格言で,「我れこれを為すにあらず只これに服するのみ」と教えられております。
 毎日が感謝生活の連続です。
 何事にも「ハイ」と云う感謝生活の中に,実体験を続けさせて頂いております。
 今度とも,よろしく,ご指導の程,お願い申し上げます。

つづり方       琴江 由良之介

 ささやかなこの作文は,女の人らに読んでもらえているのかナ? いつも,こう思いながら書いています。できれば,その気持ちに届いたらエエな,と念じつつ……。
 ふと,あらためて,先月号の三十数編を,「男と女」で読み比べてみた。
 くっきりと,まん中に一本線が引かれてある……。
 白組は,知識を伝えようと力んでいる。
 紅組は,目の前に在るものをしっかりみつめて,自分の感性でとらえて正直に語っている。理屈っぽくないので,すんなり入ってきて,疲れない。
 やっぱり,この人らに……と強く思いました。
 もっとも,いうに易く,行うに何とか,そういうふうに書けるかどうかは別問題。
 かくして,今回も,月半ばになったので,苦しまぎれに,こんなたわごとを書きました。