忌部 ( いんべ ) 雑考(その6)      三木 信夫

 忌部の祖神といわれる天太玉命の神社は,天太玉命神社として奈良県橿原市忌部町にあるが,規模は小さく明治の近代社格制度では村社として登録されていた。社格制度は戦後に廃止されているが,之は延喜式にならって,伊勢神宮を除いた神社を 官幣 ( かんぺい ) 社・国幣社を大社・中社・小社に分け,府県社・郷社・村社,その他に格付けしたものである。官幣社は宮内省から 幣帛 ( へいはく ) が,国幣社は國から幣帛が供進されていた。
 天太玉命神社があるこのあたり一帯が忌部の本貫地だろうと云われているが,そうであれば官幣社に指定されてもおかしくない。忌部にまつわる資料が一つもなく,時代もあたらしいと思われる。同じ天太玉命を祀る神社で千葉県館山市大神宮にある 安房 ( あわ ) 神社(祭神=天太玉命)は,広大な敷地に社殿を構え歴史も古く,官幣大社に指定されていた。
 徳島県にある忌部神社(祭神=天日鷲命)や大麻比古神社は官幣中社で,分祀先神社のほとんどが村社であった事を考えると,天太玉命本貫地説に疑問を感じるのである。

死者の数が少なすぎる!? 中国新幹線事故
                    天羽 達郎

 今年7月に起きた中国製新幹線,ぶっつけられた方とぶっつけた方とで車両数は32。それにしては死者数が40人とは少なすぎる。日本なら1車両に横1列5座席で17列それが16両編成だから5×17×16で1列車に満員で1,360人乗っている。それが2つ分ぶつかったら物凄い死者数がでるはずだ。ということは今回の事故では乗客がほとんどいないガラガラ列車ということだ。なにしろ料金が高すぎる。3倍はする。日本の東海道新幹線は昭和39年東京オリンピックに合わせて開通した。私はその年に乗ったことがあるが座席はほぼ埋まっていた。日本ではすでに名神高速道路ができていて,東京大阪間に急速大量輸送の実需があった。そこに新幹線を作った。
 中国はそうではない。国威発揚のため共産党創設90周年記念大会に間に合うように北京上海間の開通を急がせた。需要があろうが無かろうが関係ない。そのうえ建設そのもので特権階級に大儲けができる構造が出来上がっている。鉄道省だけでなく地方政府から中央まで受注業者とその一族郎党がマージンを取りたっぷり儲けを貯め込んでいる。全部共産党最高幹部につながる連中で,裏に手抜きがあったとしても,原因を調べるにもうっかりしたことはできない。新幹線がガラガラであろうがどうでも良い,市民の利便も安全もどうでもよいのだ。当所の計画では日本の新幹線をそのまま導入する計画もあったが,日本側が調べてみると日本のシステムを入れるにはその技術的社会的基盤が無いとのことで日本が手を引いた。そこでカナダ,ドイツなど各国からばらばらに取り入れ寄せ集めで作って,中国独自の技術だと,アメリカで特許申請までした。これが中国の実態だ。

長谷川慶太郎ニューズレター?1214より

青石の考古学(2)
   (徳島大学埋蔵文化財調査室)中村 豊

2.徳島地域における青石製石器の生産
 徳島地域において青石製石器の生産が開始されるのは,縄文時代以降である。しかし,これらの生産と消費の動向を説明しうるだけの資料がそろっているのは,縄文晩期以降ということになる。ここでは,縄文晩期以降の青石製石器の生産の展開をみてみたい。


(1)打製石鍬(第1図2)・打製石庖丁(第1図3・4)
 打製石鍬と打製石庖丁は,縄文後期から一部その存在が認められる。しかし,これらが安定的に石器組成の一部をなすのは,縄文晩期前葉以降である。これらはいずれも,珪質片岩,とくに打製石庖丁は紅簾石―珪質片岩をもちいることが多い。縄文晩期前葉の,三好郡東みよし町稲持遺跡では,打製石鍬98点,打製石庖丁24点が出土し,美馬市薬師遺跡でもまとまった出土がみられる。これらは,弥生終末期にいたるまで,長らく命脈を保つこととなる。
 多くの遺跡で自家生産されたと思われ,特定の遺跡で集中生産した痕跡はみられない。
(2)石棒(第1図1)
 縄文晩期末から弥生前期初頭にかけて,大型石棒が盛んに生産される。これは,比較的もろい性質の,絹雲母―泥質片岩を多用する傾向が強い。ギラギラとした銀色を呈していることから,視覚的によく目立つ存在である。これらが実際に生産されるのは,縄文晩期末から弥生前期初頭にかけての短期間である。
 徳島市三谷遺跡・同名東遺跡・東みよし町大柿遺跡などで生産がみられる。
(3)磨製石庖丁(第1図5・6)
 磨製石庖丁は,弥生前期前葉から中葉ごろから製作が開始される。弥生中期初頭ごろまでは,磨製石庖丁と打製石庖丁が量的には拮抗しているが,その後は,ほぼ打製石庖丁に収斂することとなり,磨製石庖丁は弥生中期後葉ごろ搬入品的にみられるにすぎない。塩基性片岩をもちいる。生産遺跡を特定できない。各集落で自家生産に近い形で生産されたものと推察される。
(4)木材加工用の石斧(柱状片刃石斧:第1図8・9・11,扁平片刃石斧:第1図7・10)
 木材加工用の石斧(柱状片刃石斧,扁平片刃石斧)は,磨製石庖丁と同様弥生前期前葉〜中葉ごろから製作される。弥生前期および中期初頭のものは,灰緑色系の塩基性片岩で,片理が発達し、ややもろいものをもちいる傾向が強い。徳島市庄・蔵本遺跡で生産がみられる。
 平野部の集落が一旦解体するのにともなって,弥生中期初頭以降は,石斧生産減少する。弥生中期前半期は,吉野川北岸中流域の段丘上の遺跡で,若干の生産がみられる。
 弥生中期後葉ごろふたたび多くの出土例が認められる。この時期のものは,濃青色〜黒色を呈し,片理の目立たない硬質の藍閃石―塩基性片岩を多用する特徴をもっている。徳島市南庄遺跡のほか,阿波市桜ノ岡遺跡,同前田遺跡などでの生産がみられる。


(以下次号)

古事記の神々と神社(その2)    天田 弘之

 六月十七日,浦庄字諏訪のタケミナカタ神社に詣でた。今私の住んでいる国実に隣接している。この地に居住して三十五年が過ぎているがはじめて鳥居をくぐる有様。三村さんより当社に看板を立てたいという話を聞いていたので,古事記神代編(その五)国譲りするオホクニヌシ――“天つ神と国つ神”を読んでから南の大鳥居をくぐった。神社までは二百メートルもあろうか。境内の鳥居の左右に官吏風の礼服を着た二体がややうつむき加減で無気味なまでにきちんと坐っている。この神社だけに見る静謐でなぞめいたものだった。
 次に神社を一周して不思議に感じたのは,社殿の土台石が青石でなく灰色をした砂岩で積まれていること。本殿も一メートル以上の砂石の石積みになっている。風化して剥げかけた箇所も各所にある。 北方 ( きたがた ) の礎石は砂石なのか。 南方 ( みなみがた ) (勝浦・那賀・海部)の岩層は, ( けつ ) 石や砂石の堆積岩が多い。その時,直観的にひらめいたことがある。
 国つ神のタケミナカタは,天つ神タケミカヅチに出雲から諏訪に追い詰められて,「殺さないでくれ。この地から外には行かぬ。父オホクニヌシの言葉にも背くこともしない。この国は天つ神の御子に差し出そう。」といって諏訪の地に大社を建ててはいられて,今も居られる。そこで自分の生れ育った南方(出雲)の地のあかしとして故郷を偲び,せめて家(社殿)の土台石に故郷の砂石を持ち及んだのではないか? 私はそれを証明するものとして兄の生夷神社の礎石に何が使われているか。そこにも砂石が使われているのであれば,タケミナカタが南方(出雲)から来たという古事記の記述が確かなことになる。更にそのことは,まぎれもなく古事記が阿波を舞台に書かれたものであるという証しにもなってくる。去る七月三日,えびす祭で見た生夷神社の礎石は間違いなく砂石が使われていた。(写真1,2)

1,多祁御奈刀弥神社 砂石
2,生夷神社 砂石

 もう一つの疑問は,多祁御奈刀弥神社の入口に無気味に坐る左右の像についてである。古事記の文から推察してみた時,タケミナカタが出て暴れないよう監視をしている言わば役人ではないかと考えられる(私見)。このことは,同様のことをオホクニヌシの命に,監視をつけている。司馬さんは言っている。高天が原政権は, 天穂日命 ( あめのほひのみこと ) と子孫に永久に大社の宮司になることを命じた。現在の出雲大社の宮司である千家がその役をして今に続いている天つ神側の子孫である。天皇家と相並んで日本最古の家系であり,天皇家と同様,史上のいかなる戦乱時代にも家系はゆるがず,いかなる奸賊といえどもこの家系をかしこんで犯そうとはしなかった。裏返して言えば大国主命はさほどに強力な統率力をもって慕われ,国つ神出雲民族を統治していた命と言えるのである(司馬遼太郎 昭・36)。
 上はタケミナカタ神社で感じた私見を書いたもの,御批判下さい。

○石井町の神社の礎石を検証する。

浦庄諏訪 野神社 (青石)
浦庄諏訪 霊神社 (青石)
浦庄国実 八幡神社 (青石)
浦庄上浦 八幡神社 (青石)
高原 八幡神社 (青石)
東高原 五社神社 (青石)
高川原天神 八幡神社 (青石)
高川原南島 二ツ森神社 (青石)
石井城之内 曽我氏神社 (青石)
石井白鳥 白鳥神社 (青石)
石井尼寺 御瀧神社 (青石)
浦庄諏訪 多祁御奈刀弥神社 (砂石)

物語            サイトウ シゲジ

人は死ぬまでにどのくらいの物語を読んだり見たり
聞いたりするのだろう
僕も数え切れないほどの映画やテレビ、小説を読んできた
物語の中で僕は何度も泣いたり笑ったりした
何度も怒ったり喚き散らし叫んでいた
でも 今はもうほとんどのことを忘れてしまった
しかしある日車に乗って家に帰るとき
不思議な物語が頭の中によみがえってきた
その物語は断片的だが妙に現実感があった
漫画のコマのように順序があって
かつて僕はその物語の中で生活していたのだ
僕は今車に乗って家に帰ろうとしている
その家は物語の中にはなかった
人は二つの人生を生きることは出来ない
それは誰にでも分かる簡単なことだ
頭の中によみがえってきたあの物語は
映画でもなかったし小説でもなかったしゲームでもなかった
でも僕はその中で確実に生きていて生活していた
僕は頭を巡らしてそれを必死で思い出そうとしていた
すると頭のどこかで声がして
周りの景色が白んじてきた
現実とはこんなに脆いものなのか
心の中で僕は怯えていた
二つの現実のどちらかを選ばなければならない
どちらかを選ぶことはどちらかを失うことだ
僕は車が自分の家に着いたことを知っていた
見慣れた風景の中で飼い犬がしっぽを振っている

どちらかを選ぶことはどちらかを失うことだ
二つの物語のどちらかを選ばなければならない
僕にはそんなに時間は残されていなかった
夕闇の中で飼い犬が小さくほえた
僕はドアを開けて家の中に入っていった