忌部 ( いんべ ) 雑考(その7)    三木 信夫

 古語拾遺の造殿の文中に,「斎斧(いみおの)を以て山の材(き)を採り…」とある。之は古くから木が神の依代(よりしろ)であるとして,木一本一本を神聖視して大切に扱われていた事を示している。
 今でも私の知っている人は,最初に山林を伐採するときは,その山の神・木の神に酒・塩等のお供えをし,無事を祈願してから仕事に就いている。このように古代より日本では,自然の万物全てに神が宿ると考えられ,自然と共存し調和してきたのである。日本ではトイレにまで神様が居るのだから。西洋の一神教の場合は,自然と対決し自然を征服する事であった。京都大学名誉教授の上田正昭先生は,「鎮守の森と日本の文化」講演で「日本人の原信仰はあらゆるものを神と仰ぐ汎神教(はんしんきょう)で,単なる多神教ではありません。」と明快に説明しているがその通りである。古事記には,あらゆるものから神が生まれた事が書かれている事からも,古代からあらゆる万物に霊性を見出し大切にしてきた日本人の伝統的価値観から,日本独自の自然と一体化し同化した汎神教が生まれたと考えられる。

 王侯貴族の食事をイタリアでした事がある。私が東京女子医大消化器病センターに居た時,受け持ちの患者にイタリア人がいた。当時は食道癌の患者が世界中から師匠の中山恒明教授の手術を受けに来ていた。そのうちの一人だ。彼は主治医が付いて行かないと絶対にイタリアに帰らないというので,私が人質に取られたような形で連れて行かれた。ヨーロッパではフランス革命以来王様が無くなったが,貴族階級はずぶとく残っている。患者はその階級に属する人で,2週間アドリア海に面する別荘で家族とともに過ごした。そこで連日フルコースの食事をした。その質,量ともに大変な物で,ワインを飲みながら毎日4,000キロカロリー以上を食べたと思う。それに比べ日本の食事はいかにも貧相に感じた。以後わが家は大食の習慣がついてしまい,今ではメタボに苦しんでいる。
 釜揚げにするシラスは11月ごろ太ってくる。橘産の釜揚げは一番美味しい。すだちを掛けた素朴な味は,あのイタリア料理もかなわない。そこで一首,

 釜揚げにすだちを掛けてビール飲む
         王侯貴族も味わえぬ味

青石の考古学(3)
   (徳島大学埋蔵文化財調査室)中村 豊

3.他地域における青石製石器の消費
 ここでは,青石製石器のおもな消費地のひとつであったと考えられる,近畿地域の青石消費の動向について,みてみたいと思う。
(1)石棒の動き(第3図)

 縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭に,近畿地方一帯で青石(泥質片岩)製の石棒が出土する。石棒は縄文時代特有の文物であり,元来東日本を中心に分布するものであるが,この時期に大陸より伝播する諸遺物や精神文化,地域社会のあり方に触発された,保守的な動向であると推察される。
 おそらく石棒を用いた祭祀を通して,既存の地域社会の存続をはかったのではあるまいか(第4図)。
 また,この石棒祭祀は,弥生前期にも受け継がれている。

(2)加工斧の動き
 弥生時代前期から中期のはじめにかけて,加工斧(おもに柱状片刃石斧)石斧が,大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する(第5図)。分布域は沿岸部を中心し,また,他石材の製品もみられる。手工業としての大きな発展はみられない。
 弥生中期前半ごろ,近畿地方では青石の柱状片刃石斧はほとんどみられない。
 弥生中期後半,藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧が近畿〜東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。現時点で確認できた分布範囲は,奈良・大阪・和歌山・兵庫・岡山・香川におよぶ。沿岸部だけではなく,内陸部の奈良,兵庫県の三田盆地などにも流通する。

(3)磨製石庖丁の動き
 徳島地域では,弥生前期に磨製石庖丁を導入するが,弥生中期以降は打製石庖丁に収斂してしまう。磨製石庖丁は,弥生前期においても青石に執着することはなく,粘板岩や赤色頁岩を含めた選択肢のひとつにすぎない。すなわち,青石製の磨製石庖丁を多用する弥生中期の近畿地域の動向とは連動していないことになる。
(4)打製石鍬と打製石庖丁
 打製石鍬と打製石庖丁は,ともに珪質片岩,紅簾石―珪質片岩を使用する場合が多い。縄文晩期後葉の東みよし町大柿遺跡では,埋納遺構で共伴するなど,出現・展開・消滅にいたるまで,その動向に共通する点が少なくない。
 これらは,自家消費的で,他地域へ流通することはあまりみられない。

(以下次号)