忌部 ( いんべ ) 雑考(その8)    三木 信夫

 鳴門市大麻山地域東部で,2世紀末から3世紀初頭の萩原2号墳発見により,日本最古の古墳として,阿波の墓の築造法がヤマト王権の王墓のルーツとして見直され,阿波とヤマト王権がかなり親密な関係があったと論じられている。古代の大麻山萩原墳墓群地域は,吉野川北岸にあり吉野川河口と海岸に面した阿波の入り口として交流で栄えた所で,すぐ近くに阿波忌部系の大麻比古神社がある。
 吉野川市の旧忌部神社(祭神:天日鷲命)と大麻比古神社(祭神:天日鷲命の長子大麻比古命と猿田彦命)の立地面から見ると,大麻比古神社は平野部の民と,忌部神社は山(ソラ)の民との深いつながりがあったと考えられる。旧忌部神社周辺の古墳は,規模も小さく年代も6世紀半ばと新しい事を考えると,神殿は大麻比古神社が先に出来て,後から忌部神社が出来たと考えるのが妥当でないだろうか。阿波忌部の祖神の神社が先に出来た或いは先に出来るのが当然だとの一般論にこだわる必要はなく,孫が父大麻比古の神社を作り,次に祖父日鷲の神社を作ったと考えれば,忌部神社が大麻神社より新しくても問題はないと考える。大麻比古神社を起点に考えると,現千葉県房総半島への移住も古語拾遺の記載が正しいといえる。古代神殿の無い時代は,大麻比古神社は大麻山を磐境(いわさか)としていたと思われるが,ソラの民とのつながりがある古い忌部神社は,忌部山に残る立石等の祭祀遺跡は規模も小さく,むしろ木を神の依代として神聖視していたのでないだろうか。

 最近室町戦国時代の歴史に詳しい製薬会社の人が当院に来るようになった。京都大学の非常勤講師をやっている人です。そこで質問をしました。蜂須賀家が秀吉より阿波藩を貰った時に最初に築城したのは今の徳島城ではなく一宮にしたのはなぜか。彼は即答した。当時の習いとして新しい領地に入ったら,必ず先の根拠地である城に入るのだそうだ。この地の主はこれからは俺様だという威信を示すためだそうだ。当時阿波には国衙と称する場所が3ヵ所あった。国府と勝瑞それに一宮。国府は一番古いのだがその時はもう機能をしていなかった。一方勝瑞城では1582年の中富川での長宗我部との戦いで敗れて完全に焼失してしまい使いものにならなかった。それで残りの一宮に築城したという事だ。その後今の城山に築城したが,高知城,松山城などに比べて極めて小さいものだった。なぜか。以下次号。

風に吹かれて      サイトウ シゲジ

人が死ぬことになれてきた
人が死ぬことはただ人がいなくなることだと思い始めた
ちょっと遠くの国へ行ってしまうことだと思い始めた
またいつの日にか逢えるのだと思い始めた
そうでないとあまりに寂しくて生きていられないのだ
たくさんの思い出を残したまま人はどこへ行ってしまうのだろう
僕は残されたものを抱えて道を歩いていく
この道はあなたが行った道で
僕も行く道なのだ
やがて僕はあなたの後ろ姿を道の遠くの方に見つける
あなたは颯爽と前を見て歩いている
僕はあなたに追いつこうとしてさらに早く歩こうとする
でもあなたはあなたの前にいる人を追っているので
僕には追いつくことが出来ないかもしれない
僕はその時自分が死んでいることに気づいた
やがて僕の思い出を抱えて誰かが僕の後を追ってきた
僕は少しだけ歩みの早さを遅くした
僕は前を行く人と後ろから来る人に挟まれて一人ではなかった
きっと僕の前の人の前にも人がいて僕の後ろの人の後ろにも人がいて
人の列が長く続いているのだと思った
僕は歩きながらときどきこの人の列はどこに続くのかと考えたが
生きているときと同じで
こたえはただ風に吹かれているだけだった

復興チャリティーバザー    松林 幸二郎

 復興は今始まったばかり,廃墟から立ち上がろうとする被災者に対して,私たちのように海外に住む日本人は,直接何も出来ない悔しさを感じてきました。祈ることも,義損金を送ることも私たちに望まれる義しい行為でしょう。しかし,祖国のために何か行いをしたいという願いをずっと持っていたところ,チューリヒ市で8月最終日曜に開かれる第2回リカバリー日本プロジェクト・チャリティーバザーへの,プロの芸術家部門への参加の要請を受けました。
 ブースに並べるものを決め,来客や勤務,それに子守りの合間を縫って,紙を漉き,押し花を作り,グリーティングカードやロウソク立てなどの作品作りを進めましたが,全て和風に統一したせいか,バザーに訪れたスイス人の目をひき,ほぼ完売という成績を残せたことは感謝でした。
 そして,主催者やボランティアの人々に感謝の気持ちを伝えたくショートビデオを作ったところ,主催者の方は非常に喜んで下さりました。ところが数日して,ビデオを観た他の実行委員会の方からのパッシングを受けることになりました。原因は,BGMに賛美歌―とおきくにや―を使ったからでした。祖国が滅びるような喪失感に沈んでいた私に勇気と希望を与えた(多くの被災者も同様でしょう)美しい賛美歌を使うことによって,ひょっとして反発を感じるかたもいるかもしれないとはある程度は予想しましたが,これが“キリスト教を押し付けている”“仏教者や神道をないがしろにする”という宗教アレルギーに繋がり,騒動にまで発展するとは夢にも思いませんでした。
 スイスは,賛美歌を国歌にしているキリスト教国です。クリスチャンの数こそ減ってしまいましたが,キリスト教の精神的物質的遺産のうえに成り立っていて,私たち異邦人である日本人も,何の代償もなしにその遺産の上に豊かな生活させていただいているという事実を,忘れてはならないと思うとともに,世間に自分がクリスチャンであると表明することは,歓迎されないばかりか,往々にしてパッシングを受けることを意味することを再認識させられたものでした。

天地創造       琴江 由良之介

 大阪に出て行って,その帰り,バスまでに,梅田で時間があったので,鳴り物入りでオープンしたとかの,駅ビルの百貨店に身をおいてみた。
 その九階だかの,本屋の,一方の壁が透明の一枚ガラスになっていて,腰を引きひき覗き込んだら,奈落の底にターミナルステーションのホームが幾筋も列になって見えた。
 模型のような電車が,あとからあとから入ってきて,次々に出ていくことをくり返している。そのたびに,けし粒のような人の頭が,ぞろぞろとうごめいている。めいめい,てんでに,昼には何を食おうか,なんてことを思いながら歩いているのだろうが,そんなふうにしばらくながめていたら,そこに,何やら約束事があるような気がしてきた。間違いなく,ひとつの決まりで線を描いている。
 いつしか虚空の高さも気にならなくなっていた。首を上げると,ショッピング空間も,駅舎のゾーンも,すっぽりと包み込むように,大天井が覆いかぶさっていた。
  須弥山 ( しゅみせん ) 宇宙だ,と思った。