忌部 ( いんべ ) 雑考(その10)

               三木 信夫

 語拾遺に依ると、「阿波忌部の祖神天日鷲命の孫は、木綿(ゆう)や麁服(あらたえ)の織物や麻糸を上手に造るので、忌部の祖神天太玉命の孫である天富命がその孫達を連れて阿波国に行き、木綿や麁服の原料である穀(かじ)・麻の種を植えて繁殖させる。その天日鷲命の子孫は、阿波国麻植郡に居住し、天皇が代替わりした時の大嘗祭には、木綿・麁服などを貢進している。」とある。

 現に歴代の天皇が大嘗祭を行う時は、南北朝以降一時中断はしたが、必ず阿波忌部直系氏人が往古より麁服を貢進している史実がある。延喜式も麁服は由加物ではなく、麁服の取り扱いを別格扱いして神祇官に保管し、当日阿波忌部氏の5人の御殿人(みあらかんど)が悠紀殿・主基殿の第一神座に安置するのである。麁服は天皇が威霊を体得される為に神衣(かむそ)として祀り使用されるものであり、このように重要な麁服を、製作から安置まで阿波忌部氏のみで行っているのである。

南北朝時代迄は、常に麁服を「荒妙の御衣使(あらたえのみぞつかい)」という勅使(神祇官の従五位クラス)が受け取りに来ており、昭和の時は大礼使が来ている。天皇家の秘儀である大嘗祭に欠かせない麁服が、なぜ阿波忌部の御殿人が製作したものでないとだめなのか?。

江戸時代に復活した大嘗祭では、阿波忌部氏は麁服を貢進出来なかったので、皇室では別に阿波のある神社に製作を依頼し「忌部代」として使用している。先例によりとはいえ、阿波忌部氏の麁服にこだわる事は、ヤマト王権成立迄さかのぼるのではないだろうか?。このような重要な祭祀儀式には、当初から関わりがないと途中からは先ず組み込まれないのが普通である。

麁服の貢進儀礼は、中臣氏・藤原氏の権勢がいかに強かろうとも消す事の出来なかったもので、ヤマト王権成立に阿波忌部族が祭祀等で大きな役割を果たし、天皇家成立の秘儀に関わるものであり、儀式を司る為に欠かせないもので有ったからであろう。

免疫ってなに?(その1) 天羽 達郎

免疫とは疫病から免れる意味です。ある病原菌が体に入ってきて病気を起こします。すると白血球の集団が飛び掛かって行きそれを殺し病気が治ります。一旦治ると二度とその病気にはかからなくなる。こういう状態を免疫ができたと言います。なぜかと言うと,白血球が病原菌の姿形を覚えていてくれて,次回それが来るといきなり襲って行き絶滅してしまうからです。体内では病原菌が繁殖出来ません。すなわち発病しないで済みます。白血球集団には色々と種類があり役割分担がある。この記憶を担当しているのがリンパ球です。

 病原菌を直接殺すのは抗生物質という薬です。これがない時代には人類はずいぶん伝染病にかかって死にました。抗生物質の第一号は第二次大戦末期に発明されたペニシリンです。それまではどうしたかというと免疫を人工的に作る方法をとりました。抗生物資の代わりに病原菌を半殺しあるいは殺したもの,しかも姿形が残っている状態のものを,元気なうちに体にぶち込みリンパ球にそれを覚えて貰います。こういうのをワクチン

(予防接種)といいます。ワクチンの第一号は1770年代イギリスの医師ジェンナーが始めた天

然痘にたいする種痘です。当時天然痘で多数の人が死にました。ところが牛にも天然痘があり,その牛の世話をしている人が手を怪我をし感染した場合,その人は病気にならずしかもヒト天然痘が移らない。そこにヒントを得て自分の子供に牛痘由来の人化牛痘苗を皮膚に傷つけ植付けました。これが成功への道づけです。以下次号。 

 お便り 天香具山神社宮司  橘 豊咲

 拝復

 冷秋の候,平素は疎遠にしております。

 お元気な由,何よりに存じます。

 傘寿が過ぎて,9月8日から81才で,父も仝年令で能登一宮に奉仕していました。

 来る11月16日午前小生の腹部エコー検査の結果を見て,来年三月末で,宮司を辞去したいと思っていますが,生きている間,交流の事もありますので,名誉宮司として皆様にお会いできるかと,現在私一人で思考しています。

 体験,経験の浅い人を十四社七十数回,宮司と言う訳にはいかない。11月下旬には決断をする心算です。桜井支部で交流のある,年令は若く見えますが,その桑山氏の先祖は大和新庄藩々主で,気骨のある人です(二万石〜二万五千石)。場合に依っては年内に案内する心算です。他に四十代で石切神社に勤めた笛の名手も居ります。

 先はお便りの返事と近況まで。乱挙。

                   敬具

絵はなぜ描いているのか

                天田 弘之

  絵を描いていて考えることがあった。一般には人は生きるために職業につくのだが,「美術学校を出ても,絵を描いても食えない。」これは職業ではないなあと思って言ったことがある。モダンアート協会の同年輩のオオミダイゾー氏が「あたりまえだろう。自分で好きなことをやっていてそれで食えると思うのは間違いじゃないか。」と彼は言った。

 考えてみれば,一般には絵がないと生きていけないことはない。生きていくのにいらないものを一生懸命でやっているというのは人間だけで,他の動物のやっていないことを懸命にやっているということは, 尊いもの ( ・・・・ ) だなあと自分で思いだしてきた。食べるために描く絵ではない。いい絵を描くために描いているんだ。やはり 絵かき ( ・・・ ) という職業はないというのが道理だろう。それはそれとして重要なことは,絵を描く人も見る人も よろこび ( ・・・・ ) をもらうことができるということであろう。

「わが内なる阿波記」 門田 良實

阿波忌部氏は甦るか(0)- 阿波での出会い-

 定年を迎え,阿波に移り住み,家内の「一日一?の野菜ジュース」を自然栽培の野菜で賄いたいと思っていた矢先,ナチュラルハーモニー代表の河名秀郎氏の著書「自然栽培の野菜は腐らない」に出会い,撫養農業研究会の有志の方達と河名さんの講演会を開催することになりました。それと並行して,吉野川流域の天空の村々やカヤ・ヨシ農法や阿波忌部の遺跡などの見学も行い,“阿波忌部氏は古代日本を平和的に統一するため,カヤ農法で育てた五穀の種を携えて全国展開したのではないか”と思うようになりました。

 あの3月11日の東北大震災と原発事故が発生したのは,河名氏の講演会も終わり,「徳島自然栽培の集い」の立ち上げを模索していた頃でした。原発事故の影響は日増しに深刻になり,東日本に拠点を置くナチュラルハーモニーのことを思うとじっとしておれなくて,阪大時代の恩師・

有本卓教授の最終退官を祝う集まりで「阿波忌部氏は甦るか」の話しをさせてもらいました。

 その大筋は,『今回の原発事故は何百年に亘って何百兆円というツケを我々の子孫に残すことになろうが,そうなったのも自然の摂理に逆らって安易に原発に手を出したからである。これからは,皆が声高に唱えてきた「地下資源に依拠したグローバルな工業立国」を見直して,そこからうまく(自然の摂理に従って)脱却していくことが肝要である。そこでは,自然の摂理に則って「自然栽培と自家採種の普及」を目差すナチュラルハーモニーの役割は大きく,その意味において彼らは現代に甦った阿波忌部氏と云っても過言ではない』というようなものですが,吉野川流域の紹介に時間を取られてしまい,一時間半近くも話したのに,肝心なことはほとんど話せないまま終わってしまいました。

 最近「阿波古事記研究会」の行事に参加させてもらい,古事記も少しは素直に読めるようになり,阿波忌部氏のことも身近に感じられるようになってきました。そこで今回「波阿波」の紙面を借りて,今一度「阿波忌部は甦るか」を自分の中のイメージに従ってまとめ直したいと思っています。