わが内なる阿波記(その3)

アインシュタインの神さん   門田 良實

 前回は,一般相対性理論に対するアインシュタインのゆるぎない信念について話しましたが,それは翻って,彼が自然界の法則性を固く信じて疑わないからに他なりません。実際,自然界には,粒状のもの・流れるもの・揺れるもの・電磁もの・光るものなど日常の身近なものから,とても小さなもの・とても速いもの・とても大きいものなど日常から掛け離れたものまで色々あり,これらすべての“もの”にはそれぞれの法則があって,それらがわれわれの理解できる数式で(偏微分方程式)で表されるということは,アインシュタインでなくったって驚愕してしまいます。ついでながら,後半の“とても・・・もの”の研究では,アインシュタインはノーベル賞を三つも四つも貰らってもいいような成果を上げています。

 世間では物理学者=唯物論者=無神論者という公式を当てはめ,物理学者は信仰とは無縁のように思われ勝ちですが,もし自然を創りそれを法則で導く主がおられ,その主を仮に神と呼ぶことにすれば,ほとんどの物理学者はこの神の敬虔な信者と云えるのではないでしょうか。前回も話しましたように,この自然の法則性に対するアインシュタインの確信はゆるぎないもので,ほとんど信仰に近いようなもので,実際,彼の会話にはしょっちゅう“神さん”が登場してきます。彼は若い頃はユダヤ教やキリスト教に入信したようですが,ある時期から特定の宗教からは足を洗い,ひたすら彼の“神さん”の信者になっていったようです。以下では,このアインシュタインの“神さん”(自然の法則性の主)を“神”と呼ぶことにします。

 しかしこの世の中では,これまでたくさんの善良な人たちが理不尽な惨い目に遭ってきました。今回の東日本大震災でも,呆然と見守る人たちの目の前を何千何万の善良な人たちが粛々と流されて行きました。もっと云うなら,人間の歴史はこのような理不尽な惨劇の繰り返しにさえ見えてきます。神がしろしめされる世の中で,何故このような理不尽なことがまかり通るのでしょうか。これまで宿業とか試練とかいろんなことが云われているようですが,私は神が人の幸せに無関心であらせられるからだと思っています。

極上のコーヒー    松林 幸二郎

 台所から漂う芳醇なコーヒーの香りに誘われて朝の食卓につくと,妻がエスプレソマシンで入れたばかりのコロンビア・ブラックコーヒーが渋い信楽焼のカップに入って私を待っています。朝一番の贅沢なひとときですが,この香りもコクも極上のコーヒーが,コロンビアのどこで作られたか直接訪れて知ったが故,特別な感慨をもって,その芳醇なコーヒーを,リオネグロタールであったインディヘナのコーヒー農民の顔をひとりひとり思い浮かべながらいただいています。

 10年前,コンピュター機器を一式持ってコロンビア人の妻とIT事業をするため妻の実家のあるポパヤンに移住した義弟は,それがコロンビア人の仕事を奪う事に気づき,極上のコーヒーを生産しながら,自らけっしてそのコーヒーを飲むことは出来ない極貧のインディへナに出会ったのが現在のプロジェクトを始める動機となりました。それでは到底人間らしい生活は出来ない市場価格の5割増の報酬を農民に出すが,最高品質の生豆を育て供出させコーヒー人口の多いスイスに輸出するというプロジェックトですが,気候異変の長雨のため,無収穫の(それは無収入を意味する)年もあり,10年たった今,軌道に乗ったとは到底いえません。

 スイスでは想像できない質素な生活に満足し,コロンビアの社会に根を下し,インディヘナの生活向上のために奔走する,かってはアンチ・キリスト教だった義弟が,妻の祈りに静かに聴き入る姿をみて,義弟夫婦や彼らが支援するコーヒー農民のために,出来る事はなんでもしようと思いまずHPとスイスでの講演用のビデオ撮影を現地で始めました。

 まだ,完成までまだまだ日時が必要ですが,その一端をコロンビアの旅/ペルーの旅(コロンビアの義弟訪問後,足を延ばした)としてショートビデオにしてみました。

 もし,お時間と興味がありましたら,ご覧ください。Youtubeの検索にObertobelといれると,私の作ったビデオ作品が出てきます。

コロンビア編

http://www.youtube.com/watch?v=7EKMhkF0ug0

ペルー編

http://www.youtube.com/watch?v=OCOIwcaJQ5o&feature=related

徳島キリスト教会55年記念誌発刊    石渡 修司

 徳島キリスト教会が徳島市内で,最初の礼拝を開始してから,55年が経った。創立記念年は、切りの良い数字を選ぶものだ。25年,50年,75年,100年など。今回,55年となったのには事情があった。私が牧師として着任した年が,既に51年だった。前年に50年を迎えていた。ところが,50年を祝うような状況になかった。

 このままでは,教会の将来が危惧されると,教会の今後について話し合う作業の真っ最中であった。教会の使命を再確認し,今後の取組みについて,計画を建て,新しく着任する牧師と取り組んでいくことになった。まさに,50年目が大きな節目の年となったのである。

 そのようなことで,50年という年を祝うことはできなかった。そして,そのまま,ずるずると年を加えていった。牧師が着任し,安心されたのであろうか,3年が経って,教会員の方々が次々と召天された。このままでは,教会の過去を知っておられる方々を失ってしまう,なんとか,教会創成期を担ってきた方々の記憶を形に残しておかなければならないと思った。

 切りの良い75年という節目を待っていたら,間に合わない。私の内に焦りが生じてきた。すぐに始めよう,しかし,それでも,私一人ではだめで,教会員の方々の気持ちがそうなっていかなければできないと思った。その気持ちになってもらうために,長いようだけれど3年懸けようと覚悟した。なかなか動いてくれない,自分のこととなっていかない。

 ついに,3年目に入った今年,動き始めた。印刷業者に見積もりを出してもらった。全体の構成も決まった。原稿を書いてもらう人達に執筆依頼を送った。教会員より,外部の人の方が反応が早く,次々と原稿が送られてきた。それを知って,ようやく教会員が原稿を書き始めた。表紙とグラビアの写真も選んだ。ついに,すべての原稿,写真が揃い,印刷業者に渡した。3月4日(日)徳島キリスト教会創立記念日に間に合うよう,発刊できることを願っている。

「何事にも時があり,……その労苦によって満足するのは,神の賜物だ」コヘレトの言葉3:1,13

『三丁目の夕日’64』を見て            石渡 路子

 「三丁目の夕日」の三作目,連れ合いに連れられて,一緒に見ました。一作目から見てきましたので,映画の登場人物や背景などは分かっています。今回は,1964年という年の夕日町の姿を映し出していました。この頃のことは,私の記憶にしっかりと残っています。よく覚えています。日本中がオリンピックに集中していました。オリンピックのために,すべてが動いていました。東海道新幹線も,このオリンピックに合わせ,開通しました。高速道路もそうでした。オリンピックのために,もの凄い勢いで,国中が,それもあらゆる分野で,エネルギッシュに突き進んでいました。そのことはメダル獲得に象徴的に現われています。女子バレーボールの金メダルはその最たるものでしょう。映画の中でも,金メダルを賭けたソ連(現在のロシア)との試合は,壮絶でした。日本中がこの試合をテレビで観戦し,応援していました。

 一つの目標に向かって,素直に,みんなが一つになれた時代だったのです。まだ貧しかったけれど,それだけに豊かになっていくことが実感できました。貧しさの中で,一つずつ物が増えていくことが大きな喜びでした。

 目標を達することが幸せなのではなく,目標を達しようと限界に挑戦していること自体が,もう幸せであり,また努力したからこそ,その結果を喜ぶことができる,そのようなことを東京オリンピックのあったあの時代は教えてくれました。

 日本の成長は,東京オリンピックで終わることなく,さらに続きました。物の豊かさが心の豊かさにならないことを知らされるまで,人々はがむしゃらに頑張り続けました。私は子どもたちにそのことを伝えなければならないと思っています。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」マタイ福音書4:4

すべての思いを家族に 89

しているふり        田上 豊

 私達は正しく生きるとか,人に迷惑を掛けずに生きるとか言っていますが,現実はむずかしい生き方なのです。正しく生きると言葉ではよく使うのですが聖人でも若いときは人に迷惑を掛けて人にお世話になりながら成長してきたのです。生き物の一つとして生きる物は,何かを犠牲にして(食べて)生きているのです。何かに迷惑をかけて生きているのです。

 正しく生きる事も厳密に見れば出来ないのです。正しいという確固とした定義がないのです。正義がすべてと言う人も居ますが,その正義で争っているのです。争いが正しいのでしょうか? 正義が勝つとは限らないのです。

 「正しく生きる」も私達はしているつもりです。誰も正しく生きられないのです。長いこと生きてきたけど正しく生きている人を見たことが無いのです。

 生涯現役とか生涯正義とか言う人が居ますが出会ったことがないのです。

 自分は正しく生きていると錯覚をしているのです。人に迷惑を掛けずに誰も生きられないのです。

 人生は楽しく生きる方向に向った時,多くのことが見えるのです。軌道修正もしやすいのです。すべてのことに感謝が出来る様に成ってくるのです。

 私達は多くの事を出来たフリをしているのです。紳士のフリ,淑女のフリ,正義のフリをしているのです。考えたいものです。