小春日和と呼ぶにはまだまだ早いとわかっていても、今日は何だかそう呼びたい気分で。
昨日までの冷たい長雨がまるで嘘だったかのような、雲一つない青空と柔らかな日差しだったから。
おもいっきり息を吸い込んで、吐き出して。そんなことを数回繰り返した頃、ようやく待ち人の登場。
「何やってんだ?」
「見ての通り、深呼吸」
『この時間に迎えに来るから、それまでにちゃんと準備をしておいてね』 と約束をしておいても、必ずと言っていいほど、私が来た時にはまだ眠っているはずの新一が、今日は珍しく準備は済ませているからと言うので、私は玄関先で待つことにした。そして、本当に数分と掛からない内に、新一が私の前に現れたものだから、何だか拍子抜けして。そんなつもりじゃなっかのに、素っ気無く答えてしまった。
「ほら、行くぞ!」
「うん」
決して口にはしないけど、明日はきっと雨ね。
今日も午後から警視庁に行かなくちゃならないとかで、それまでの限られた時間だけど、ランチを一緒に、と新一が言い出したのは、つい1時間ほど前のこと。それから慌てて準備をして、今こうして、久しぶりに二人並んで歩いている。本当にこの1ヶ月ほどの新一は、目に余るほどの多忙を極めていたから。
目当てのお店は、住宅街の中にひっそりと佇む、素朴だけれどおしゃれなお店。ランチコースが評判で、ランチタイムの始まる11時半には、すぐに席は埋まってしまうらしい。だから、少しでも早く着くために米花公園を横切ることにした。
「ここは、昔から変わらないね?」
「そうか?」
「うん、同じ匂いだし」
と、少しだけ立ち止まって、この日、何度目かの深呼吸をしてみる。
隣りの新一は半ば呆れ顔で、けれど、ちゃんと今も昔も変わらないその優しい眼差しで見守ってくれている。不思議ね、そのどこまでも澄み切った瞳が私の不安な気持ちを、全て消し去ってくれるのだから。
でも、この日の新一は少しだけ違ってた。
もう一度だけ深呼吸をして、その場を立ち去ろうとした時のこと。
新一のその目が急に険しいものへと変わり、
「え?」
私の左手を強く握ったかと思うと、自分の背中に隠すように引っ張った。
でも、そんな緊張感も新一の視線の先を確認したら、すぐに消え去ったのだけど。
「ねえ、もしかして、新一。あの子が私たちに近付いてきたからとか?」
「あ、ああ……」
気恥ずかしそうにそう答える新一を、私は笑わずにいられなかった。
だって、私が『あの子』 と言ったのは、見るからに賢そうな一匹のゴールデン・レトリーバーだったから。
「まさか、あの子が私に急に襲ってくるとでも思ったわけ?」
「しゃーねーだろ? 一種の条件反射みたいなものだからさ……」
子供の頃から私も新一も動物好きで、どんな犬や猫たちともすぐに仲良しになれたのだけど、新一にとってゴールデン・レトリーバーだけは例外で。きっとそれは、あの一件が原因なのだと思う。そう。私たちが小学校にも上がらない、十数年前のこと。
その当時からサッカーが大好きだった新一に付き合うように、私も毎日のようにここ米花公園でサッカーボールを追いかけていた。きっと、そんな私たちを傍から見れば、猫が球にじゃれているような感じに見えていたんじゃないかな?
私たちがそうしてサッカーボールで遊ぶようになり、1週間くらい経った頃、私たちにもう一人、否、もう一匹の仲間が加わる。それが、ゴールデン・レトリーバーのアレックス君だった。
数週間前からこの公園に散歩に来ていたアレックス君は、いつの間にか、私たちと一緒にボールを追いかけるようになり、気が付いたら、私や新一と友達になっていた。特に新一は、アレックス君のことをサッカー選手みたいだろ?とか言って、『アレ』と呼んでいたくらいの仲良しに。
あの日も、いつもの時間、いつもと同じ公園で、いつもと同じように“3人“で遊んで。その後、木陰で休んでいた時にことだった。
いつものように何気なくアレックス君の頭や体を撫でていたら、急にアレックス君が私の腕に噛み付いてきて、驚いた私が思わず悲鳴を上げてしまった。
「キャッ!」
「どうした蘭?」
「ううん、何でもないから……」
噛まれてといっても、それは、ホントにカプっというくらいに軽い力で。その証拠に、腕には歯型が薄っすらと残る程度でしかなかった。それに、その時、アレックス君が凄く悲しそうな表情を見せて。きっと私がアレックス君が嫌がることを知らないうちにしてしまったのだと思い、咄嗟に嘘を付いたのだけど、新一には見事に見破られてしまった。
「オメー、アレに噛まれたんじゃねーのか? その腕、見せてみろよ!」
「新一、違うの! アレックス君は何も悪くないの!!」
今にもアレックス君に飛び掛ろうとする新一を、私が何とか止めて。すぐに逃げ出せたはずなのに、アレックス君は身を低くしたまま、上目遣いに私たちのことを見ていたあの悲しげな表情は、今でもはっきりと覚えてる。
そうこうしているうちに、お母さんやおばさま、それにアレックス君の飼い主の増田さんたちも、私たちの騒ぎに気付いて駆けつけて来てくれて、私に代わっておばさまが新一を静止してくれた。
「どうしたの、二人とも?」
「アレが蘭のことを噛んだんだ!」
「何ですって!?」
「違うの! 蘭が悪いの!」
涙が零れ落ちそうになるのを必死に堪えて、事情を説明して腕の噛み痕も見せたら、お母さんたちの心配もすぐに落ち着いたよう。でも、新一のアレックス君への怒りはなかなか収まりそうになくて。それで、私もどんどん悲しくなって、涙が止まらなくなってしまった。
「毛利さん、本当にすみません」
「そんなに謝らないで下さい、増田さん。念のため、蘭を病院に連れて行きますけど、この様子だと、大したことはなさそうですから」
「本当に、本当にすみません……」
「でも、変ねえ。こんなに賢いアレックス君が新ちゃんならまだしも、蘭ちゃんの腕を噛むだなんて。ねえ、増田さん。今までにアレックス君が誰かを噛んだなんてことは?」
「いえ、一度も……」
「そうでしょうね。ねえ、英理ちゃん、確か、蘭ちゃんも今までに何かに噛まれたりしたようなことはなかったわよね?」
「ええ、そうよ」
「やっぱり、何か事情がありそうね……」
お母さんたちが原因究明をしている間も、新一はずっとアレックス君のことを睨み続けていた。でも、結果的に新一のその目が原因を突き止めることになったのだけど。
「ねえ、もしかしたらコイツ、背中の真ん中辺りに怪我してんじゃねーの?」
「え?」
「試しに、軽く触ってみてよ」
新一の言葉に促されて、飼い主の増田さんがアレックス君の背中をそっと触れてみる。すると、アレックス君の表情が明らかに歪んだ。
「ホントだわ。いつの間に、怪我なんて」
「さすがね、新ちゃんv」
「でも、コイツが蘭のことを噛んだことには、変わりは無いからな」
「ゴメンね、私が痛いのに触っちゃったから、ビックリして噛んじゃったんだよね?」
それから、私とアレックス君はそれぞれ病院で診察を受けに行って。
私は何の問題もなく、アレックス君も軽い打ち身と診断された。
私たちとアレックス君が再会したのはそれから2週間後で、新一とアレックス君が元通りの仲良しに戻るまでには、それから更に1ヶ月以上も経ってからのことだった。
「なーに笑ってんだよ、さっきから?」
「ちょ、ちょっとね」
「って、どうせアレのことでも思い出してたんだろ?」
「やっぱり、バレてた?」
「ったく……」
「それより、早くランチに行かなくちゃ! ね、パブロフ君?」
「はい?」
「条件反射といえば、パブロフの犬だから」
「あのさー、パブロフっていうのは、犬の名前じゃなくて、実験をした博士の名前だぞ?」
「うん、知ってる。でも、パブロフ君ってちょっと可愛い響きじゃない?」
理由はどうであれ、私を守ろうとしてくれてることには変わりないんだし、そんな新一の優しさに、これでも、ちゃんと感謝してるのよ。
でも、もうそろそろいいんじゃない?
だって、何も悪くないのに、新一とすれ違う度に、一瞬でも怯える犬たちが可哀想なんだもん。
遥か昔、確か5歳くらいの時のことなんですが、留意は飼い犬に肩を噛まれてことがあるんです(笑)。その経験を元に書いてみたんですけれど、微妙ですね……。
ちなみに、留意がなぜ噛まれたかというと、馬のように跨ろうとしたからなんですが(苦笑)。