東海道五十三次


武 蔵 國(一)
(む さ し の く に)

出立:江戸日本橋
(東京都中央区日本橋)


発   端
 数年前、急に思い立ち「旧東海道」を江戸日本橋から京三条大橋まで、出来る限り忠実に旧道を歩いて行くことを思いついた。
若い頃はテントを背負って一週間十日間の山登りをしていたが、今はせいぜい日帰り登山がいいところだ。山登りに代わるなにか大きな計画を立て、その目標に向かっていけるもの、そうだ!「旧東海道だ」!

早速、「有隣堂」(神奈川県下では横浜をはじめあちこちに支店のある大きな書店)に行き、旅行の棚を探したが「東海道五十三次」のガイドブックは一冊もない。
私が歩いてみようと思いつくくらいだから、そんなガイドブックは幾らでもあると思っていたのだが、店員に聞いても「ないですねー。」

当時ガイドブックはなかった。
その後、江戸開府400年(平成15年:2003年)を記念した事業があちこちで行われたが、その前年頃から各種のガイドブックがどんどん出始めた。
しかしそれより前の平成9(1997)年2月から歩き始め、平成12年(2000)元旦には京三条大橋に着いていたのだから、全く間に合わない。

その後、ただ1冊だけあることが分かった。
文庫版の東海道ネットワークの会「完全東海道五十三次ガイド」。(1996年発行)
当時、私は仕事上はワープロで充分だったのでパソコンを持っていなかった。だからパソコンで「東海道五十三次」を歩いた人の記録を見て参考にすることも出来なかった。
と言っても現在パソコンで見てみても、私が歩いた当時「東海道五十三次」を歩いてそれをパソコンにUPしている人はやはりいなかった。

と言うわけで「完全東海道五十三次ガイド」をバイブルとして歩き始めた。

現在UPされている「東海道五十三次」関係のHPでは、実際に歩いた年月は一番古いものと思う。


出   発
平成9年(1997)2月2日。神奈川県のJR「平塚駅」午前5時17分発、「東京行」の東海道線。
「東京駅」着6時21分。 まだ真っ暗であった。
東京駅八重洲口から日本橋を目指し歩き出す。 6時45分、日本橋着。寒い!

「日本橋・朝之景」

慶長六年(1601)徳川家康により、東海道が整備され、2年後の慶長八年(1603)に日本橋架橋。
長さ:約68m、幅:7mの木橋で、いわゆる「お江戸日本橋」。

この画は、それより230年後の廣重画・天保四年(1833)頃の日本橋風景

現在の橋は明治四十四年(1911)、それまでの木橋から石橋になった。


東海道をはじめとする五街道の里程元標が日本橋である。


京都まで503kmか。よ〜〜〜し、絶対歩くぞ!


2月の夜明けの銀座通りに向け、西にまっすぐ伸びる街道。誰も歩いていない。
由緒ある日本橋の上を首都高速道路が覆い被さっている。無粋なものだ
真冬の早朝6時55分、日本橋上から京三条大橋を目指し歩き始めた。
いよいよである! 武者震いがした。

なにぶん仕事をもっている関係上休日を利用し、歩いたところまで交通機関を利用して戻り、
そこからまた歩き始めるということにし、勘案の末、足掛け3年、
平成12年(2000)1月1日午前10時、京三条大橋着」と初めから決めた。


歩き始めて10分少々。

右手に寛永元年「史跡 江戸歌舞伎発祥之地碑」。
左手に今は川は埋め立てられているが石の「擬宝珠(ぎぼうしゅ)」が残る「京橋」。

日本橋から京都に向かって最初の橋なので
「京橋」という。


「江戸」が「東京」になったのは明治元年(1868)で、
江戸は京都の東にある京(みやこ=都)、つまり、「東」の「京」で「東京」となった。 
とにかく初日である。どこまで歩けるか見当もつかない。
厚手の半コートを着てAF28〜70mmズームを付けた銀塩カメラ1台ぶら下げているだけだ。
あとは何も持っていない。ハンカチと財布だけ。
昼飯はどこかテキトーなところでテキトーな時間に食べれば良い。



京橋を過ぎ、有名店・老舗が軒を連ねる銀座通りもまっすぐのびている。もちろんどの店もシャッターが下りている。

「銀座四丁目交差点」を過ぎ、朝日が差してきた。
日中は人出が多いところだ。そして日本一地価の高いところ。
新橋。「銀座の柳」の碑がある。
今ある柳は二代目だ。

新橋で新幹線・東海道線などのガードをくぐり、浜松町、芝大門で浄土宗大本山増上寺を見やる。
言わずもがな徳川家の菩提寺である。東京タワーも見える。

7:55「金杉橋」通過。歩き始めてちょうど1時間。4km。

「金杉橋」を過ぎて、歩き始めて1時間少々。
港区芝1丁目:落語「芝浜」の”雑魚場(ざこば)”と呼ばれた漁師町はこの辺りか。

「芝」は、かっては柴(しば)の生えた海浜であったことに由来する。


「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地」の記念碑を過ぎると、すぐ「札の辻」だ。

そしてこれまたすぐここ、「高輪大木戸跡」:(現:港区高輪2-19)

昔、お江戸日本橋を七ツ立ち(午前4時)して、ここで夜明けの提灯を消した。
日本橋から約6km・1時間半。旅立つ人をここまで送り、別れの水盃を交わした。

また反対に、京から江戸に下ってくる人をも出迎えるのはここだった。
昔はこの大木戸を出ると、いよいよ京までの長い道中が待っていたのだ。


間もなく高輪「泉岳寺」:8時35分。

四十七士の討ち入りは元禄15年12月14日(1703年1月30日)。


時代劇でおなじみの赤穂浪士の討ち入りの法被を着た墓守の人から、線香一把100円を買う。
墓に詣でると、いかにも出張で昨晩近所のホテルに泊まったと思しきサラリーマン風の男3,4人が既に線香を手向けていた。

赤穂浪士の死後今日まで300年間、線香の煙が絶えたことはないという。

線香を手向けた後、8時55分泉岳寺を後にして「品川宿」に向かう。

第一次:品川宿
(東京都品川区)

「日之出」

品川宿は江戸を出立して京に向かう人、また京から江戸に入る人をの送迎で大変賑わった。
また桜の名所、紅葉の名所、武士・僧侶から一般の人まで、遊興客で日夜繁盛した。

この絵は、御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を画いている。




9時20分、「八つ山橋交差点」を左折し、東海道線等をまたぐ鉄橋を渡り、すぐ京浜急行の「北品川駅」の踏切。

その手前左手に「旧東海道」の案内板を見つける。

初めて見る「旧東海道」の文字に感激する。

2時間ほど歩いて、やっと温かくなった。
 

踏切を渡ると「北品川商店街」。「品川宿」が始まる。この道が旧東海道である。この道幅が旧道なのだ。
面影は違うが、昔人はここを歩いたのだ。

今まで幅の広い、車の行き交う国道を歩いてきたが、いよいよ旧道である!
そして旧東海道最初の「宿場」である。胸が高鳴る!

  宿場に入ってすぐ左角に「問答河岸跡の碑」。
    三大将軍家光が東海寺を訪れた際、見送りにきた沢庵和尚に
     「海近くして東(遠)海寺とは如何に」と問うた。和尚は、
     「大軍を率いて将(小)軍というがごとし」と答えた、といわれる場所。
 

時宗・善福寺を過ぎ、商店街の交差点先左角にラーメン店を見つける。
9;55。日本橋から歩き始めて3時間。腹も減ったしちょうどいい、最初の休憩をここでする。
ノリ、メンマ、もやしが入ったチャーシュー麺。800円。

10:05、食べ終わって水を飲み、歩き出す。10分間しか休憩しなかった。



目黒川に架かる「しながわばし」。乙なもんだ。


「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」の無料の「お休み処」が、
宿場内の商店や寺の境内に何軒かあった。このお店もその一つ。

自分達の街の歴史を大事にしてるんだと思う。


ここは「そばや」さんだが、商店街のこの辺はやたら「とんかつ」と書かれた店が多かった気がする。

それにしても、日本はほんとに電信柱が目障りだ。

平成21年(2009)2月2日:追記
写真の立会川の蕎麦店「吉田家」さんは安政三年(1856)創業の名店。現主人は六代目。
正真正銘の十割蕎麦。茹で時間はなんとたったの十五秒!

品川区東大井2−15−13:午前11時〜午後9時:火曜日定休。


おお!懐かしい、しもた屋さんだ!


10:50。泪橋(浜川橋)を渡る。

「泪橋」の由来は、この先1km程のところにある「鈴ケ森刑場跡」で処刑される罪人の家族が密かにここまで見送り、涙で別れを告げたからだという。

この橋のすぐ北側は京急「立会川駅」だ。

1km足らずで「鈴ケ森刑場跡」だが足が痛い。足の裏にマメが出来そうだ。
 


11:05。「鈴ケ森刑場跡」に着く。

この髭題目の前で、幡随院長兵衛が白井権八に「お若ェの、お待ちなせェ〜」と声をかけたことになっている。
 



左:「磔台」丸橋忠弥(慶安四年・1651)をはじめ、この台上に柱を建て縛り付けられ磔刑された
右:「火炙台」八百屋お七(天和三年・1683・十五才)は、この石上で生きたまま火炙りにされた

左右の石台には受刑者を縛り付けた柱を立てる穴があいている
明治3年まで、この地で処刑が続けられた。


さて、ここで国道15号(第一京浜)と再び合流する。
日曜日の昼間で国道はがらがらに空いている。

痛い足を引きずって、11:15京急「大森海岸駅」に辿り着いた。

所要時間は休憩等を含め、4時間20分。
初日に歩いた距離、たった12.4km。 しかし、この足の痛さ。
若い頃登っていた山はとてもこんなものではなかった。
あ〜あ、運動不足と年を感じた。



初日はここまでがやっとだった。
帰りの京浜急行・JR東海道線とも車内は空いていて、座ることができた。
しかし、歩くに比べて電車のなんと速いこと!その有り難味を痛感する。

全行程の「日程表」はこちら。


2 日 目:

9日後の2月11日、前回歩き終わった京急「大森海岸駅」に電車でやってくる。
国道に出て、10:25、歩き出す。


大森本町。国道から旧道に入る(首都圏は旧道が殆ど残っていない)。
昔、この辺一帯で採れた海苔は浅草に運ばれ、江戸名産”浅草海苔”として売られた。


「ミハラ通り商店街」に入る。
「ミハラ=美原」、旧字名の南原・中原・北原の三原を美称で「美原」とした、と案内板にあった。

膝の高さくらいの石柱があちこちにあり、そこに絵が描かれた瀬戸物がはめ込んである。
この絵は「大森 和中散」で、滋賀県石部宿・草津宿の中間にあった「和中散本舗」の出店が、
当時、大森から蒲田にかけて三軒あった。


”麦わら細工” も有名だったのだろう。


商店街の、駄菓子屋さん。
昔も今も、子供の社交場だ。
 

11:15。暫く歩いていると、梅の香りがする。
どこだろうと歩道橋に上がってみたら、ここだ。

ここは「和中散売薬所跡」で、「和中散」は食あたり、暑気あたり等に効く道中常備薬で、旅人に珍重された。

元禄(1688)頃から大森中原に開業し、その後文政年間(1818〜)ころ、ここに移り、庭園に梅の銘木を集め、休み茶屋を開いた、と大田区教育委員会の案内板はいう。
 

11:45。東六郷1丁目26番地で、
あれ?ここは! 
突然思い出した。

30年ほど前、この辺でエンストして近所の自動車修理工場に駆け込んだのだ。

ところであと1km少々で「六郷の渡し」、多摩川になる。
 

12時05分:「六郷の渡し」、多摩川だ。これを渡ると、東京都と別れて神奈川県に入る。

車は真っ直ぐ国道をそのまま「新六郷橋」を渡っていくが、
歩いている人間は橋下から螺旋階段を昇って、橋上の歩道に出る。


新六郷橋の中央にある標識。ここから神奈川県川崎市だ。


第二次:川崎宿
(神奈川県川崎市)

「六郷渡舟」


昔、六郷の渡しで川崎宿に入ると、”奈良茶飯”で有名な「万年屋」があった。
茶飯に豆腐汁、煮しめなどで、一人前三十八文だったという。
天ぷらそばが三十二文の時代に割安で、立地条件もよく大変繁昌した。
江戸時代の殆どの旅行記に紹介されいて、後には旅籠も兼ねた。

川崎はまた「長十郎梨」のふるさとだ。


本町二丁目:「旧東海道」と言われても、なんの趣もないなァ。


「新六郷橋」を渡って10分ほどで「田中本陣跡」、そして宗三寺前の蕎麦屋「増田屋」で昼飯。

天ぷらそば、900円。運ばれてきた海老の天ぷらは揚げたてで、ジューという音がする。うれしいねー!
汁を飲むため丼を持ったが、その丼が分厚く、重く、暫く持っていたら左手が痛くなった。女性は無理だね。
12時45分〜1時00分まで休憩を兼ねる。美味いソバだった。



1時30分。
京浜急行「八丁畷駅」

この踏み切り手前に「芭蕉句碑」がある。
 

芭蕉の句碑:
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」


1時40分。「市場上町」:昔はこの辺に市場が立ったのか。
雨がぱらつく。


程なく「市場一里塚」:そして間もなく鶴見川だ。
「一里塚」は左右で一対だが、右側の「塚」はなく、この左側の「塚」だけ残っている。


脇に「道祖神」があった。

裏側に回って、この道祖神の造立年代を見るのを忘れた。


鶴見川を渡る。

川崎市に別れを告げ、横浜市に入る。
 

「武蔵國(二)」に続く

「掲示板」
訪ねていただいた記念に一言、足跡をお願いします。