東海道五十三次


武 蔵 國 (二)
(む さ し の く に)


第三次:神奈川宿
(神奈川県横浜市神奈川区)


鶴見川を渡り、川崎市から横浜市鶴見区に入る。

町のお米屋さんだ。
スーパーと違って、こういうお店を見るとホッとする。
なんか“人情”を感じる店、という趣がするのだ。
 



横浜市鶴見区鶴見中央五丁目。
昔は情緒ある街並みだったんだろう。


生麦に入る。

本日祭日のため、貝屋さんが並ぶこのあたりも店は閉まっている。

その軒先に、アサリとイカが天日干しされていた。
  

生麦の「道念稲荷」:約300年前に遡る夏の”蛇も蚊も”祭りが有名。
ここ生麦(なまむぎ)は川崎宿と神奈川宿の“間の宿(あいのしゅく)”。


2時55分。「生麦事件之跡」

学校の教科書で御馴染みの、文久二年(1862)島津久光の行列の前をイギリス人リチャードソン等三人が乗馬で横切ろうとしたところ、薩摩藩士によって切りつけられた殺傷事件。

彼らは大名行列の前を横切ってはいけないことを知らなかった。

大名行列の前を横切ってもお咎めがないのは、「お産婆さん」だけである。
 
 
ここから10分ほど歩いて、3時05分、京急「新子安駅」着。

2日目の今回は「大森海岸駅」から「鶴見」までのつもりが「新子安」まで歩いてしまった。
初日に比べ、足の楽なこと。右足第二指の付け根に小さなマメが一つ出来ただけだった。

14.5km。休息を含め、4時間40分。

全行程の「日程表」はこちらから

3 日 目:

2ヵ月後の4月14日

10時55分。前回の「新子安駅」から歩き始める。

鶴見区を過ぎて神奈川区に入ると、俄然神社仏閣が軒を連ねる。
ここは「熊野神社(熊野権現)」



神奈川宿は安政六年(1859)の横浜開港に先立ち、
宿内の寺院は諸外国の公使の宿泊施設として使われた。

この「成仏寺」も多くの社寺がそうであったように、この寺も幕末来日した、
宣教医師ヘボン(ヘボン式ローマ字の人)や宣教師ブラウンの宿舎として使われた。


江戸時代には東海道中の名井戸に数えられていた。


「宗興寺」:ヘボンの施療所の跡。医者としてだけではなく、
ヘボン式ローマ字、また日本で最初の和英辞典を完成した。



「宮前商店街」に入る。
浦島伝説にちなんだ亀をかたどった瓦せんべい。

州崎神社脇の「若菜屋」が代々受け継いできたそうだが、平成元年(1989)閉店したそうで、今は、ここ「浦志満」が引きついでいる。
 


商店街を出ると「第1京浜」にぶつかり、すぐこの「青木橋」になる。

「横浜駅」方面を見る。

JR東海道線・JR横須賀線・JR湘南新宿ライン・京浜東北線・東横線・京浜急行・相模鉄道・横浜市営地下鉄などが通っている。
 

JR「横浜駅」の手前を北西に入っていくと、旧神奈川宿になる。
下図・廣重の「臺之景」の面影が坂道に残っている。


「臺之景」

幕末、ここに砲台があり、外国船の入港を江戸に知らせる為の合図が打たれた。
現在の町名は「台町」なので、その砲台の名残かと思っていたが、
廣重画も「台之景」、1797年出版の「東海道名所図会」も「神奈川台」で
「砲台」とは関係ないことが判った。

昔の神奈川宿は海が目前で、袖ヶ浦とよばれ、大変風光明媚な所だったようだ。
現在は海の辺りがJR・私鉄の横浜駅やデパート、駅ビル、銀行、高層ビル、
そして上図のあたりはマンション群で、歩いていて海はもちろん見えず「臺之景」のような面影はない。


「臺之景」に画かれている坂の頂上付近の”さくらや”は、今”田中家”という料亭になっている。
これも昔の面影を残している。「文久三年」ということは1863年。

坂本竜馬の妻・おりょう(お龍)は竜馬の死後、この店で仲居さんとして働いていた。



「神奈川台の関門跡」。

横浜港開港後、外国人が何人も殺傷されたため、幕府は安政六年(1859)、横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。そのうちの一箇所がここ。

しかし明治四年(1871)、他の関門とともに廃止された。
(案内板より)
 

12時50分。神奈川宿から30分足らずで「松原商店街」。
安売りで、TVの特集番組でもお馴染みの商店街だ。もちろんここが旧道。

旧道が現在は商店街になっている地区は、道中に随所にみられた。

この商店街の手前辺りが昔は芝生村(しぼうむら・現浅間町)と言われ、人足や馬の休憩場所の
立場
(たてば)があって、そこにはめし屋もあり、酒、わらじなども売っていたようだ。


1:15。
左に進んでJR「保土ヶ谷駅西口」着。

本日はたった7.8km。2時間20分。

近場なので、ひょいと行ってひょいと歩いてきた感じだ。

 


第 4 日 目:

第四次:保土ヶ谷宿
(神奈川県横浜市保土ヶ谷区)

「新町橋」


4月27日(日):9時10分。
JR「保土ヶ谷駅」から歩き始める。

すぐの四つ角に「横浜市地域 有形民俗文化財 金沢横町道標四基」の標柱と案内板があった。


向かって右から:
@ 「圓海山之道」:
  天明三年(1783)建立
“円海山”は鎌倉への途中にある円海山護念寺。「峯の灸」で江戸時代有名だった。
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A 「かなさわ かまくら道」
  天和二年(1682)建立
金沢八景への金沢道及び鎌倉への道標。
左面に“ぐめうし(弘明寺)道”と彫られている。
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B 「杉田道」
  文化十一年(1814)建立
“程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花  其爪”とあり、句碑を兼ねた道標として、大変珍しい。
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C 「富岡山芋大明神社の道」
  弘化二年(1845)建立
富岡の長昌寺のことで、“疱瘡(ほうそう)”の守り神として信仰を集めていた。

程なくJR東海道本線の踏切をり、国道1号を渡ると、目前に保土ヶ谷宿旧本陣跡。
(その昔、当主と偶然知り合いになり、横浜・野毛近辺でよく飲みました)

「保土ヶ谷」:今井川の侵食による細長い谷間の地形を「ホト」「ホド」と言うことからという。



1号線を進み「保土ヶ谷歩道橋」で1号線を渡り、この二股は右の旧道に入る。
 


すぐ右側に「樹源寺」。
境内にあがってみる。
寺のすぐ裏は東海道線・横須賀線が走っている。

東海道線は15両編成。
この橙色と濃緑のツートンカラーは小田原・熱海のミカン畑をイメージしたもの。

この113系車両は2006年3月17日をもって東海道線から引退した。 
現在はステンレス製の重量の軽い車両が同じく15両編成で走っている。

「権太坂(ごんたざか)」:
往時は九十九折りの険しい山道で、最も急な一番坂、それに続く二番坂があったが、
昭和30年代の宅地開発で、今はなだらかな坂になってしまった。

(尚、恒例の正月2日・3日箱根駅伝の”権太坂”はこの旧道を走るわけではなく、国道1号線。為念。)


「投込塚」:街道往還の際、不幸にも行き倒れした人々の供養碑だ。
権太坂を登りきり、平坦な道をしばらく行き、旧道からちょっと左に入ったところにある。


「投込塚」からほんの2,300mのこの辺りはかって旅人が休憩する”立場(たてば)”で,
富士山を眺めながら食べる「ぼた餅」が名物だった。

この家も、もとぼた餅屋の一軒だったとのことだ。


そのすぐ隣が「境木地蔵尊」:武蔵國と相模國の國境だったので、その名がある。

この先から、相模國に入る。


しかし、我ながら「良いこと」を始めたものだ。平塚から電車賃往復数百円。
適当なところで昼飯を食べ、一日歩く。 健康に良く、おまけに経済的である。

(と、最初はのんきに考えていた。段々遠くなるに連れて、新幹線だ、宿泊費だ・・・。)


「相模國(一)」に続く

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