東海道五十三次


相 模 國 (一)
(さ が み の く に)


「境木地蔵尊」を過ぎると相模國で、すぐこの切通しの下りにかかる。
画面中央奥の、こんもりした濃い緑の木々が「品濃(しなの)一里塚」だ。


「品濃一里塚」:日本橋から九番目の一里塚。
閑静な住宅街の道の両側に、ほぼ昔のままの形で残っている。


道は丘陵地帯になり、梅・梨・柿等の横浜市の農業専用地区に指定されているところを歩く。

この辺はのんびりした気分になる。

そしてこの先で急な階段を下って1号線に出るが、JR「東戸塚駅」東側の急激な開発で、どこが昔の“品濃坂”か見当もつかないくらい変貌してしまった。

平戸町を過ぎ赤関橋を渡り、11:30、不動坂交差点を左、旧道に入る。


第五次:戸塚宿
(神奈川県横浜市戸塚区)

「元町別道」

中央に画かれている道標が現在「妙秀寺」に保存されている。



(表)

(裏)
「妙秀寺」に保存されている「左かまくらみち」の道標。延宝二年(1674)建立
このようなものが残っているとは思ってもいなかった。

12:25。“開かずの踏み切り”として有名な、JR東海道線「戸塚駅」着。

大磯に邸宅を構えていた時の総理大臣「吉田茂」が東京往復の際、
この開かずの踏み切りに業を煮やし、バイパスする横浜新道を造ってしまった!
「ワンマン宰相」が鶴の一声で造らせたので当時はワンマン道路と呼ばれた。

昭和30年(1955)のことであるが、お陰で今は「新道」がメインになっているし、
正月の「箱根駅伝」も数秒の差で遮断機がおりてここで立ち往生する選手がいたが、
今は「新道」を駆けているのでその心配も無くなった。


藤沢まで歩くつもりでいたが、足の具合で本日はここまで。
例によって近場なので、散歩気分でのんびり歩いている。 8.8km 3時間20分。

昔の人は江戸を早朝出ると、大体この戸塚泊まりが一般的だったらしい。
十里、約40kmだ。大したものだ!


第 5 日 目:
平成9年7月21日(月)
7:30。 JR「戸塚駅」から再び歩き始める。

駅からすぐの、安政六年(1859)創業の「松本屋」さん。醤油醸造兼旅館だった。醤油造りの蔵。


「富塚八幡宮」を過ぎて「大坂下交差点」。
だらだら坂を登り1号線に向かう。

ここを過ぎると「第六天神」がある。


坂を登りきって1号線に出る。「お軽勘平戸塚山中道行の場」の碑だ。
歌舞伎”仮名手本忠臣蔵”に因んでたてられた。


車の行き交う1号線沿いを歩いている。なんとも風情がない。
「46km」の道標を見て、いつになったら京三条大橋に着くんだろう?と思う。


8:45:

歩き始めて1時間15分。
渋滞で有名な「原宿交差点」を過ぎた所。

散歩気分を一新し、本日はいよいよ長距離を歩く覚悟で靴を新しくしたが早速マメができた。

もちろん斯くあることとバンドエイドを用意していったので、ペタッ!
 
9:00。「すき家」。
牛丼並400円(の時代です)。

「吉野家」の牛丼は経験あるが、「すき家」は初めて。
味が「吉野家」より濃いと思う。

さあ〜て歩くか!
腹も万全!足も万全!といったところ。
 

9:30。「西富歩道橋」手前:
しかしこの歩道の狭さ。巾50cmだ。
道路は現代、歩く人よりも車が優先になってしまった。


第六次:藤沢宿
(神奈川県藤沢市)

「遊行寺」


9:40。「時宗総本山 遊行寺(ゆぎょうじ)」:ここから江ノ島への道が分かれる。
江ノ島へ“びにく”? いえ、“遊行”とは“行脚(あんぎゃ)”のことだそうです。

正式の名は「藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ」


9:55。 旧宿場内の「永勝寺」に飯盛り女四十八名の墓がある。それぞれの墓の横の「施主 小松屋源蔵」は
旅籠「小松屋」の主人。飯盛り女を大事にしたこのような葬りかたは、他にあまり例を見ない。


夏祭りだ。

10:45:
「鳥羽一里塚跡」通過。

11:30。歩き始めて3時間、間もなく茅ヶ崎。日本橋を出て、やっと松並木らしい松並木だ。


11:48 「茅ヶ崎一里塚跡」(JR茅ヶ崎駅そば)




12:20。 千ノ川手前の鳥井戸橋は神奈川県で唯一「左富士」の名所だが、当日は見えなかった。

「左富士」:江戸から京に向かって歩く場合、富士山はおおむね右手に見える。
しかし場所によって、道が北寄りに(右に)大きく折れる箇所がある。
その場合、富士山が当然左手に見えるので、その場所からの富士を「左富士」という。

「吉原宿」の「左富士」はつとに有名。


名物まんじゅう「でかまん」。
おお、食べてみようと思ったらお休みでした。
 

『第1回JR相模沿線の魅力写真コンクール入選作品』

12:30。 鳥井戸橋から1km程で小出川沿いの「史跡 旧相模川橋脚」に着く。
大正12年(1923)の関東大震災による地層の変化で、それまで水田だった所から7本の橋脚が現れた。
約700年前の鎌倉時代、相模川は現在よりも2km東を流れていたことになる。
橋の巾はすくなくとも四間・7mあり、全国でも数少ない大橋であったと考えられている。


真夏のカンカン照りの1号線。車も少ない、人は誰も歩いていない、犬一匹、猫一匹歩いていない。
戸塚宿から藤沢宿を過ぎ、汗がだらだら。ここ迄自販機でポカリスエットなど、5本飲んだ。
しかし、どうして日本はこんなに電信柱が目立つ国なんだろう!


12:50。 相模川(馬入川)を渡ると、もう平塚宿だ。

しかし、ここ馬入橋上を歩いている時が疲れが最高。
タクシーが来たら本当に乗ろうと思った。

「馬入川」:800年以上前の建久九年(1198)十二月、この相模川の橋供養の際、
源頼朝の乗る馬が雷鳴に驚き、頼朝落馬、馬は川に入りて死す。故に馬入川という俗説がある。


1:30。JR「平塚駅」着。
本日21.5km。6時間。

真夏の旧道歩きはつらい。
バテた。

顔・腕、陽に焼けて真っ赤になった。
3日後、額と鼻の皮がむけ始めた。

「相模國(二)」に続く

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