東海道五十三次


相 模 國 (二)
(さ が み の く に)

第 6 日 目:
平成9年10月22日(水) 7:45発。

第七次:平塚宿
(神奈川県平塚市)


平塚海岸(相模湾)から左手箱根連山・右手奥に富士山を望む


JR平塚駅前の商店街が旧道だが、夏の平塚と言えば”七夕”
その商店街を飾る七夕祭りに毎年5日間で300万人の人出がある。


平塚市は旧海軍火薬廠があったため、第二次大戦時空襲を受け、
市内全域に渡る火災で松並木はおろか目ぼしいものは全て灰燼に化した。
その復興を込めて”七夕祭り”が始まり平成17年(2005)はその第55回目を数えた。


「お菊塚」:番町皿屋敷の主人公お菊は平塚宿役人・真壁源右衛門の娘であった。
奉公先で家宝の皿を紛失した罪をきせられ、元文五年(1740)打ち首となるが、後日、皿は見つけ出された。
平塚駅すぐそばの「紅谷町公園」。


「平塚の”塚”」:
桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が東国へ向う旅をした折、
天安元年(857)この地で逝去し、棺をここに埋葬し墓として塚が築かれた。
その塚が平らになり里人は当初は「たいらつか」と呼んでいた。


旧道から、廣重画く高麗山(こまやま)が見える


「縄手道」


昔、平塚宿の留女は旅人に「大磯宿はあの山を越えた向こうでございます。今からでは山中で夜中になります。」
と言って無理やり宿に泊めた。しかし実際は山を越えず、麓の平らな道を2km(30分)で大磯宿に着いてしまう。
そのため、この高麗山は後年「ペテン山」と呼ばれるようになったそうだ。(山に気の毒だ)


国道1号線沿いに頑としてある茅葺屋根の家。
拍手を送りました。


第八次:大磯宿
(神奈川県中郡大磯町)

「虎ヶ雨」

「虎ヶ雨」:日本三大仇討ちの一つ曽我兄弟(他の二つは、荒木又右衛門・鍵屋の辻と赤穂浪士・忠臣蔵)の
兄・十郎祐成と虎御前の悲恋にまつわる伝説の地により、“虎御前の雨(涙)”と洒落たのであろう。

「大磯」:地名の由来は長く続く磯からきたもの。
高麗(高句麗)人渡来地といわれ、東部の高来(こうらい)神社、高麗寺跡に名をとどめる。


『第1回東海道フォトコンテスト「一般の部」:入選作品』

「いらっしゃ〜い!」
毎年秋、松並木の旧道で行われる「大磯宿場祭り」
旧道の両側にこのようなにわか作りの店が何軒も出る


こんな出で立ちの人たちが何組も宿場内を歩いている。
う〜〜〜ん、この格好でゴールの京三条大橋に立とうかと、ふと思った。


そして、祭りの花形・大名行列


ところで大磯は“湘南”という地名の発祥の地

しかし現在の“湘南”のイメージは日本固有の松に白波ではなく、
東に位置する太陽ギラギラ、サーフ・ボートの茅ヶ崎・逗子になってしまった。


「鴫立庵(でんりゅうあん)」:小田原の崇雪が結んだ草庵
西行法師の”こころなき身にもあはれは・・・・・”で有名。
今は京都・落柿舎、滋賀・無名庵とともに日本三代俳諧道場の一つとして知られる。

2008.9.29(月)、「掲示板」に、「鴫立庵」“しぎたつあん”と地元大磯では言っております、
と大磯町経済観光課の方(添付URLがそうなっていたので、観光課のどなたか、或いは大磯在住の方?)から書込みを頂いた。

確かに現在、一般では「しぎたつあん」と呼んでいるし、多くのHPも全部「しぎたつあん」とわざわざ仮名をふっている。

では何故、私はこのHPで「しぎたつあん」ではなく「でんりゅうあん」と言う読み方を採用したかと言うと、
寛政九年(1797)刊行・秋里籬島著「東海道名所図会」には、ちゃんと「でんりゅうあん」と振り仮名がついていたからだ。

「しぎ(訓読)たつ(訓読)あん(音読)」:訓・訓・音になっているが、普通「しぎたつ」と読んだら「庵」も訓読で「いおり」と読むべきだ。
つまり、「しぎたついおり」と読むべきであろう。

京都「落柿舎」:「おち(訓)がき(訓)しゃ(音)」とは読まず、全部音読で「らくししゃ」だ。
滋賀「無名庵」:「(訓)なし(訓)あん(音)」ではなく、全部音読で「むめいあん」である。

おちがきしゃ」や「ななしあん」では間が抜けて、なんともだらしがない。
やはり音読で「らくししゃ」、「むめいあん」だからピチっとしまる。
同様、「しぎたつあん」よりも音読の「でんりゅうあん」の方がいかにも俳諧道場だと思うが如何?

つまり江戸時代もずっと「でんりゅうあん」と呼ばれてきたものが、いつの間にか「しぎたつあん」になってしまった、ということですね。

                                                           2008.10.1(水):追記


大磯宿から国府新宿に向う旧道

10:35。「国府新宿」着。 本日、8.5km。2時間50分。
隣街を歩いた、といった感じ。


第 7 日 目:
平成9年11月3日(月)
9:00。前回のバス停「国府新宿」着。歩き始める。

旧道が消えて国道1号線を歩き、また旧道が現れて暫く歩く



ここ「押切坂」を下ると再び1号線と合流する。

しばらく歩いて「車坂」:左手に相模湾が見えてくる。

この坂の途中に案内板があり、「太田道灌」「源実朝」「阿仏尼」が、この辺りで詠んだ歌の説明文が書かれていた。

1号線と平行して西湘バイパスが走る。箱根の山が薄っすら見える。
城下町・小田原も、もう指呼の間だ。


11:00「森戸川・親木橋歩道橋」渡り、小八幡付近。

やっと80kmまで来た!

松並木を過ぎ、
11:35、「酒匂中学」バス停。

時刻表を見たら、ちょうどバスの時間がいいので今日はここまで。
バスでJR「国府津駅」まで戻る。

本日、9.5km。2時間35分。
どうも近場は長い距離を歩く覇気がない。

平成9年はここまで。仕事の合間に時間を見つけて歩いているので、はかどらない。

「相模國(三)」に続く

「掲示板」
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