東海道五十三次


駿 河 國 (一)
(す る が の く に)


境川に懸かる「千貫樋」を過ぎると駿河國。
”旅行けば、駿河の國は茶の香り・・・・・”
ではなく、百花繚乱、花の香りだった!


街道沿い、垣根越しに花がいっぱいだった。

「駿河路や 花橘も 茶の匂ひ」 芭蕉


駿東郡清水町の一里塚


街道左の宝池寺側は復元


右の宝井寺側は原形

黄瀬川を渡る。川岸も菜の花が満開。
富士山をバックにツバメが多数、空を飛ぶ。


 第十二次:沼津宿
(静岡県沼津市)

「黄昏圖」


乗運寺:京都智恩院の末寺
境内に若山牧水の墓がある


”千本松原”どころか、十万本くらいある。
ず〜〜〜と松林が駿河湾沿いに続いている。


駿河湾を眼前に、左に伊豆半島の大瀬崎、ずっと右端に富士山


天気が良いので外で昼飯を食べるため、コンビニで弁当を買った。


思い出す

この旧東海道を歩く数年前、用事で静岡県に来た時のことだ。新幹線ではなく、車で来た。
用事を終わり、帰途、ここ千本松原の旧国道1号線を走っていた時、向こうから高校生くらいの男が歩いてくる。

大きなキスリング型のザックを背負って、片足をやや引きずっている。“疲れてるんだなァ。”
“しかしどこに行くつもりだろう?”と思っているうちにすれ違って、彼の後姿はルーム・ミラーに遠ざかっていく。

ブレーキを踏んでUターンし、彼を追った。追い抜いて車を停め、
「どこまで行くんだい?」
『京都まで。』
「京都ォ〜!? 歩いて?」
『はい、坂本竜馬の、あの近江屋まで。』

坂本竜馬に傾倒し、両親を説き伏せて夏休みを利用し東京を出発した、という。

「じゃ、あの箱根も越えてきたの?」
『はい。』
「しかし、すごいね、ザックも背負って!」

野宿もしたし、お寺にも泊めて貰ったという。

「疲れているようだから、どこかその辺まで乗せていってあげるよ。」
『ありがとうございます、でも、竜馬もこの道を歩いたのですから僕もずっと歩いていきます。
あ、足は疲れているのではなく、幼い時の小児麻痺でこっちの足がちょっと不自由なんです。』

ご両親も心配したろう。しかし昔から“可愛い子には旅をさせよ”という。

「道中、気をつけて。成功を祈ってるぞ!」と言って分かれた。
名前も聞いていなかったが、間違いなく「近江屋」に着いたはずだ。

今頃、彼はどうしているかな? とふと思う。


JR「片浜駅」の先で踏切を渡る。

あの「彼」も、ここを富士山を見ながら渡ったろう。

富士山がいつまでもついて来る。(大体、このように右側に見える)


第十三次:原宿
(静岡県沼津市原)

「朝之富士」


「松蔭寺」に着いたら、祭りの列が来た。松蔭寺ゆかりの”白隠さくら祭”だそうで、
写真を撮ったりしているうちに山門に残る”摺鉢松”を見るのをすっかり忘れてしまった。


淡嶋神社


第十四次:吉原宿
(静岡県富士市吉原)

「左富士」

道がぐっと北向きに折れると、この絵のように富士山は左手に見える。(左富士)
しかし、すぐまた道は西に向かうので、この先はいつものように右手に見えるようになる。


曇りで「左富士」、見えず


「平家越えの碑」:治承四年(1180)源氏と平家はこの辺りで対峙したが、
早暁、水鳥の一斉に飛立つ羽音を源氏の攻撃と勘違いした平家の軍勢は、戦わずして逃げたとされる。


岳南鉄道踏切「吉原本町駅」近く


吉原本町の「鯛屋旅館」:天和二年(1682)創業
一泊二食5500円 素泊り3960円 と書いてある


10時半、旧道をはずれて
「吉野家」に寄る

牛丼(並)400円×2
卵      50円×2
お新香   90円×1

安いし、うまかった〜!

※その後(並)は280円になった


富士川の度重なる洪水のため築かれた「鴈堤(かりがねづつみ)」


富士川を渡る。往時は街道一の急流と言われた。


富士川を渡り丘陵地帯を登ると間の宿:「岩淵」だ 

本陣跡の脇の「秋葉山常夜灯」
この辺り「秋葉山常夜灯」が多数残っている


間もなく「岩淵一里塚」


岩淵一里塚:榎の大木が両側に残る
通り過ぎてから、振りかえって見る


富士川町中之郷辺り


「新坂」を下ると蒲原宿だ


第十五次:蒲原宿
            (かんばら)
(静岡県庵原郡蒲原町)

蒲原宿東見附跡(宿場の東=江戸側の入口)


「夜之雪」

あまりにも有名な絵だが、この絵のような場所は「蒲原宿」にはない。

当時の新潟県・蒲原の絵で、これと酷似するものがあり、廣重はその絵を見て静岡の「蒲原」と勘違いし、
手本にしてこの絵を画き上げたようだ。

そもそも静岡の「蒲原」は、冬、雪がこんなに積もるようなことはないし、宿場内にこのような坂道もない。
一方新潟県・蒲原はこのように冬、雪が積もるのだろう。 

この絵も廣重は実際東海道を歩いていなかった、という証拠の一つ。


旅籠:「和泉屋」
天保年間(1830〜44)の建物


同上:「和泉屋」の正面


西本陣跡


蔀戸(しとみど)のある家:
安政元年(1854)の大地震の翌年に改築された家
「へぇ〜!」


我々の後から来て、あっという間に追い抜いて行った。
この人、”同好の士”だったんだろうか? 
5月下旬の陽の中をカッカッと歩いて行ったっけ。


                                
  蒲原名物 ”いるかのすまし”

別名「蒲原ガム」
イルカの背びれを薄く切り、水にさらしたあと茹でて加工したもので、子供のおやつとして食べられてきた。

蒲原で是非買おうと思っていた物。
 
乾燥しているものと生があり、
これを買った魚屋さんで
「初めて食べる。」といったら
「ちょっと待って、素人用を持ってくる。」
と、これを持ってきてくれた。

鯨のベーコンのような味で、
酒の肴にピッタリだ。
もう一袋買えばよかった。

「駿河國 (二)」に続く

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