東海道五十三次


三 河 國 (一)
(み か わ の く に)


 
3月。
例によって早朝、
5時10分家を出る。
平塚⇒三島
  (東海道本線)
三島⇒浜松
  (新幹線)
浜松⇒新所原
  (東海道本線)

新所原 8:24着

 



さて、また旅の続き。二川宿に向う。いよいよ三河國、愛知県に入る。


第三十三次:二川宿
               (ふたがわ)
(愛知県豊橋市二川)

「猿ケ馬場」


復元された「二川宿本陣」


復元された「高札場」



 敷地内に資料館が併設され、
 豊富な資料が展示されていた
 


火打坂を過ぎると、こんなのを売っていました。これは何に使うんだろう?

何かの台?
庭に置く椅子代わり?
次の宿場、
吉田を目指す。

単調な道が続く。
 

第三十四次:吉田宿
(愛知県豊橋市吉田)

豊橋市に入ると、なんと市電が走っていた! 懐かしい風景。



本陣跡は現在、
うなぎの老舗
「丸よ」
 


文政年間創業、
”菜めし田楽”の
「きく宗」で昼飯
「菜めし」: 
  大根の葉入り
「田楽」:
  豆腐に
  八丁味噌 
  辛子

「まめ竹輪」と
「田舎和え」を
  追加注文

※田楽は本数が
  多すぎる。
  食べていて、
  少々飽きる。
 

「豊川橋」


豊川に懸かる「豊橋」を渡ると次は御油宿だ。


第三十五次:御油宿
               (ご ゆ)
(愛知県豊川市御油)

名鉄名古屋本線「小田渕駅入口」の先辺り。
新しい格子がはめられている。歴史を受継いでいる。


「大社神社」手前で。


「姫街道」への分岐点。

「姫街道」=「本坂通(どおり)」:見付宿(磐田市)からここ御油宿まで、
”今切渡”を迂回する浜名湖北岸の道筋。途中「気賀」に関所があった。

”今切渡”を船で渡ることを嫌った女性の為の脇往還ゆえ”姫”街道というのだそうだが、
それにしては大きく迂回しすぎる。語源は諸説あるが、不明。


「旅人留女」


音羽川に懸かる五井橋を渡ると、御油宿。


小さな宿場だが、連子格子の家が並ぶ。



昭和19年(1944)
「国指定天然記念物」
”御油ノ松並木”

樹齢300年以上の
クロマツが600m
つづいている。

説明版に曰く:
「夏は緑陰をつくり、
 冬は風雪を防ぎ、
 長く、旅人の旅情を
 なぐさめてきました」
 
 

第三十六次:赤坂宿
(愛知県宝飯郡音羽町赤坂)

「関川神社」


午後4時「大橋屋」到着。江戸時代から続く旅籠で、もとは「伊右ヱ門 鯉屋」と称した。
正徳5〜6年頃(1715〜6)の建物で,当時は間口9間,奥行き23間の大旅籠であった。

どうしても泊まりたかった旅籠。


 まったくここは江戸時代そのままだ
 随所に往時のままの雰囲気が伝わる
 二階から一階を見る
 階段が急すぎて、見えない
 

二階、表通りに面した客間。三部屋ぶち抜き。
奥の部屋が芭蕉が一夜を過ごし、句をよんだと言われる部屋。

襖で仕切られているので、プライバシー保護のため宿泊は一日一組限定だった。


廣重画「赤坂・旅舎招婦ノ圖」(下図)はここ「鯉屋」を画いたものといわれる。


「旅舎招婦ノ圖」

「御油」「赤坂」間が東海道中一番距離が短く、1.7kmしかない。


旅籠に着き、歩き疲れた身体を湯船に浸して手足を伸ばす。
そして湯上りにイッパイやりながらの食事は、
昔の旅人にとっても楽しみだったろうと、ふと思う。


翌日の朝食:
「鮎の甘露煮」がなんとも美味だった!


例によって記念写真
ご主人の顔が影に入ってしまった!(ごめんなさい)

ご主人の青木さんは十九代目。


「どうもありがとうございました。お世話になりました。」
「ありがとうございました。どうぞ、道中お気をつけてお出でください。」


さあ、次は「藤川」「岡崎」「知立」だ。
どんな出会いが待っているんだろう。


と、歩き始めて間もなく、自転車で登校途中の小学校4,5年の男の子、女の子数人が、
見知らぬ我々にすれ違いざま口々に「おはようございます!」と挨拶をして行く。

”いいなー、旧東海道は!”

「三河國(二)」に続く

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