東海道五十三次


三 河 國 (二)
(み か わ の く に)

第三十七次:藤川宿
(愛知県岡崎市藤川)


昔の”本宿村”の入口。「冠木門(かぶきもん)」をくぐる。

「冠木門」:武家住宅に用いた門の形式で、室町時代には将軍邸の通用門としても
用いられたが、江戸時代には下級武士の住居の門となった。(「日本史広辞典」)


大きな道標がある。左が旧東海道。


その大きな道標


やがて「法蔵寺」。境内に家康が幼少の頃、手習いの折り草紙を掛けたという「御草紙掛松」がある。



寺を過ぎてしばらく行くと、
「すみません、この辺に法蔵寺というお寺がありませんか?」
「法蔵寺なら今通ってきたよ。」
「新撰組に傾倒していて、法蔵寺にある近藤勇の首塚を見に来たんです。」
「へぇー! どこから来たの?」
「神奈川県の(同じだ!)真鶴から。
高校が春休みになったもので・・・。」
 


ここで"本宿村"は終わり。
 

「名鉄名古屋本線」がわきを走る。「名電山中駅」近く。



「名電山中駅」を過ぎて
どういうわけか
右足の親指の付け根に
マメが出来た。

小休止・治療

於:永證寺門前
 

「棒鼻ノ圖」


藤川宿の入口、「棒鼻」



立派な商家だ。


脇本陣跡が「藤川宿資料館」になっている。
旧宿場の模型もあり、無人だが清潔だ。
担当の方が、日夜人知れず掃除をしているのが判る。



二又路に道標があった。



「吉良道道標」:
吉良まで15,6 kmくらいか。

吉良上野介はその地の領主で製塩業をおこし、私財を投じて洪水を防ぐ黄金堤を造った。
(「日本地名百科事典」による)
 

名鉄の踏切を渡ると松並木。 ホっとする。
クロマツが約90本と案内板に書かれていた。


ところで12時をとっくに過ぎている。 あ〜、腹の虫が鳴る! 
旧道は斜め左の道を入る。


おっ、道路を渡った右にレストランがある!



銀行の支店のような建物なので
てっきりレストランだと思ったら
中華料理店だった。

満席。
店内でしばらく待つ。

円卓で相席になった二人の青年に
「この店は有名なの?」
と尋ねると、
「古くからある店です」
とのことだった。

オーダーした料理がきた!

「タイワン・ラーメン」
   ”スープがうまいっ!
「焼豚(叉焼である)」
   ”ちゃんと紅糟が塗ってある
    多少香辛料を効かせて
    もう少し甘めでもいいかな?”
「餃子」
   ”モグモグ、モグモグ”

うまいっ!
「中華定食」:
・青椒肉絲(うん、うん!)
・酢豚(これが濃厚!美味!)
・エビフライ(名古屋に近いせいか?)
・コーンスープ

味がしっかりしている。
ほんとにうまい!

旧東海道を歩く輩は
是非ここでの食事をお勧めする!

店名は「三国志」
 

第三十八次:岡崎宿(前編)
(愛知県岡崎市)


八幡宮で小休止


いよいよ岡崎だ。「冠木門」と、”岡崎二十七曲がり”の案内板があった。



道々にある標石を頼りながら歩く。
右に曲がり・・・
左に曲がり・・・
ほんとに二十七曲がりである。
この辺りが岡崎城の大手門前で、「対面所」があったところ。
そろそろ二十七曲がりも終わりに近づく。
木町通り。
材木町三丁目

歩道が「木」で出来ている。
 


江戸時代の店の名残:
「唐弓弦(とうゆみづる)」

綿打ちの道具のこと。
 

田町辺り



銭湯だ!

「開業以来、80数年になります。」
 

板屋町:繁栄していた頃の面影が残る


「中岡崎交差点」:
反対車線は車の行列だが、こちらは殆ど走っていない。
やっとタクシーが来た! 「三河安城駅までお願いします。」


「三河安城」から新幹線。

しかし、この往復の交通費も馬鹿にならない。
ほんとに、えらいことを始めてしまった、とこの時思った。

次回、もう一度愛知県に来て、さらに三重県、滋賀県と
ますます遠くなり、宿泊日数も増えてくるのだ!

「三河國(三)」に続く

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