東海道五十三次


伊 勢 國 (四)
(い せ の く に)

第四十七次:関宿
                (せき)
(三重県鈴鹿郡関町=2005.1.11市町合併し、亀山市関町)


1号線から旧道に入る。いよいよ関宿だ!


「東の追分」:
伊勢別街道との分岐で、昔、西から伊勢参拝する人々はこの鳥居をくぐり、向った。
また、東海道を旅する人も、この鳥居から伊勢神宮を遥拝した。そしてこの鳥居は、
二十年に一度の伊勢神宮式年遷宮の際、内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてくる。


1984年、伝統的建造物群保存地区に選定

電信柱が一本もない! 雰囲気はまるで江戸時代



我々の前を歩いていたこのご婦人の足の速いこと。
やっと追いついたと思ったら、この家の前で立ち止まり、いろいろ説明をしてくれた。

話し終わって、この家に入っていく。
なんと、この「江戸屋」にお住まいの方だった!
 
 

 「雲林院家」:昔、遊郭であった


「関まちなみ資料館」に入ってみる


「鶴屋脇本陣 波多野家」:
二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠


「本陣早立」


「伊藤本陣 松井家」:
往時、間口十一間・建坪二九六坪だった

次から次と歴史のある家並みが続き、気分は江戸時代!


「橋爪家」:
寛文(1660年代)の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、
大阪の鴻池家と並び称される豪商であった

ここ「鈴鹿の関」は、「箱根の関」と並んで最も賑わいをみせた宿場だった


「関宿 旅籠玉屋 歴史資料館」



入館してみると、
番頭さんが座っている
庭の、最奥の蔵
二階の展示品
 

そしてこの宿場での目的の一つ、銘菓”関の戸”を味わうこと


360年、この”関の戸”一筋の「深川屋陸奥大掾(むつだいじょう)」さん
店舗は天明四年(1784)の建物で、江戸期の商家がそのまま営業している!


”関の戸”は餅菓子で、赤小豆の漉し餡を白求肥で包み、
その上を阿波特産の和三盆(最上の砂糖で風味、舌触りの良さ)でまぶしてある
甘くて、上品で、360年続くのも頷ける


「あれっ?」



江戸側 京都側

ところで何故、江戸側と京都側では「関の戸」の字体が違うんだ?
              ※
ず〜っと疑問に思っていたので、今回電話で14代目にあたる服部さん(現当主は13代目)にお聞きしました。
              ※
先ず初めに、この看板は「庵(いおり)看板」と申します
幕府、大名の許可がないと出せないものなのです
江戸から京方面に向う人から見ると「ひらがな」、京から江戸方面に向う人から見ると「漢字」で書いてあります
「関戸」と「関戸」が違うのです
当時の庶民は字は読めなくとも、草書・行書、ひらがな・漢字の区別はついたのだそうです
そしてこの看板は、当時どの宿場にもありました
つまりどこの宿場でも、「ひらがな」を辿れば京方面、「漢字」を辿れば江戸方面ということになります
天明三年(1783)の大火の際、この看板を持ち出したという記録が残っていますので、それ以前に造られた庵看板だということは間違いないと思います
現存するのは街道中、多分この看板だけだろうと思います
店名の「深川屋陸奥大掾」の大掾(だいじょう)は「従○位」という「位」の一つで、この「大掾」ゆえ朝廷への出入りが許されました
因みに「従一位」か「従二位」だったろう、と言われております
通行手形なしで”関の戸”は荷担箱に入れられ、警備のもと京都御所に丸2日かけて献上されました
              ※
以上お忙しい中、いろいろ丁寧にご教授頂いた。
ありがとうございます。(平成18年2月27日)
 

しばらく行くと、「鍛冶屋さんだ。」


『農林水産省主催「ふるさと山村フォトコンテスト」優秀賞受賞作品』

お願いして、鎚を打つところを撮らせて頂く。


文字通り、飛び散る火花。


「地蔵院」:天平十三年(741)、行基菩薩の開創
本堂・鐘楼・愛染堂は国の重要文化財

お地蔵さんは”関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ”と俗謡に謡われるほど美しい


と、小学生の女の子三人に、すれちがいざま「こんにちは!」と挨拶された。
知らない旅人に挨拶する、ほんとに「ええ人達やなあ ええ町やなあ」と思いました。


「松葉屋」:昔、火縄屋であった。
火縄は主に鉄砲に用いたため、大名の御用があり、
また、道中の旅人が煙草などに使うため、大いに繁昌した


全長2kmの宿場をのんびり見学して歩き、
「西の追分」も過ぎて、さあ、いよいよ鈴鹿峠に向う。


付  録:

「まあ、〜〜〜するのが関の山だ。」の語源

江戸時代,神社に奉納する山(いわゆる山車)は最盛期には十六基あり、その豪華さをこぞって競い合った。
しかしあまりにも豪華になった山車は,狭い関宿の道を通れないほどの物となったため、
”もうこれ以上のものは造れない”、つまりそれを越す事はないと思われる限度、の意味となった。

ということだそうです。


「伊勢國(五)」に続く

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