東海道五十三次


近 江 國 (四)
(お う み の く に)

第五十一次:石部宿(承前)


大晦日である。

平塚発   6:22
小田原着 6:45
        .
小田原発 7:06 ひかり151号
米原着   8:50
 

米原発 9:02
草津着 9:45


草津発 9:47
手原着 9:52

前回の「手原」駅着。


さて、いよいよ大詰め。

本日(大晦日)は石部宿・草津宿・大津宿(泊まり)
明日(元日)は大津から京三条大橋である。


上鈎(かみまがり)辺り。「東海道 手原村 火打石屋 火口屋辰之助」の屋号。


静かな街並み。



 「石部へ(伊勢参道)」
「東海道 すずめ茶屋跡地」

目前の小舎に「すずめ茶屋」の屋号を書いた木札があった。

川辺に入る。正面にも道標がある。
正面は金勝川の土手。


その道標:「中仙道 でみせ」
「東海道 やせうま坂」となっていた。


一里塚跡を過ぎ、おや?


門松の形が面白い。


「目川の立場跡」

普通のお宅の庭に立て札があった。近づいてみると・・・


田楽茶屋「京伊勢屋跡」だ。
この手前には「目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡」の同じような案内板があった。


「目川ノ里」

目川名物は菜飯に田楽豆腐で、図のような茶店が何軒もあったようだ。
しかし、目川は手原を過ぎ石部宿の外れ、草津宿と言っても良い位の場所だ。

そしてこの廣重画・石部宿「目川の里」は、
先に出版された「東海道名所図会」の挿絵と瓜二つである。

昭和35年(1960)東京国立博物館資料課長であった近藤市太郎氏は、
廣重画・「蒲原」、「庄野」が実景とあまりにも異なること、そしてこの「目川ノ里」などから、
”広重、東海道を旅せず”の口火を切った人だ。


サザンカの咲く12月なのに、何故か額に汗をかく。

気温が高くもないのに、何故だろう? 


岡の辺り。汗を拭きながら、写真を撮り続ける。

間もなく東海道新幹線のガードだ。


第五十二次:草津宿
(滋賀県草津市)

10:55 「うばがもちや」着。元禄十二年(1699)創業。

草津に身を潜めた乳母が、餅を作っては売り、幼子を育てた。
その餅の形は乳母が幼君に奉じた乳房を表したものだそうで、
中はもち米、それをこし餡で包み、上にぽちっと白餡がついている。
一口で食べられる大きさで、それほどべたつく甘さではない。


「名物立場」

「うばがもちや」で、旅人が休んでいる風景が描かれている。
が、この画も「東海道名所図会」の挿絵「うばがもちや」に酷似。


ヒレかつ鍋定食

汗をかいたためか、お茶を何杯も飲む。


11:30 出発。 

12月の寒空なのに、腕まくりをしている。
何故、汗が出るのか?


草津川を渡ると「横町道標」:
”左東海道いせ道” ”右金勝寺、志がらき道”

上胸がなんとなく息苦しい。しかし、あまり気にせず歩きつづける。


宿場の中心地に入る。

右の土手が草津川。その下にトンネルがある。
ここもいわゆる天井川だ。


「追分見付」:
”右東海道いせみち”  ”左中仙道美のぢ”
ここが”中仙道”への分かれ道


国史跡「草津宿・田中七左衛門本陣」:
年末のため休館、見学できず。


酒蔵だ!「道灌蔵」と書かれていた。
江戸城を築城した大田道灌が祖先の「大田酒造」さん。

普通よりも小さめな酒琳だ。


時間があれば見学させて頂きたい、立派な蔵だ。


江戸時代からつづく旅籠「野村屋」さん


12:05 「立木神社」


「やぐらはし」


冷や汗が止まらない。

写真を撮るのも、
歩くのも億劫になる

ここ迄我慢してきたが
心臓の鼓動が激しく、
自分でも只事ではない、
と思う。
12:40 上北池公園
野路一里塚跡

四阿屋風の休息所があり、
休憩す。
チョコレート、水。

15分間休んで歩き出すが
鼓動、激しい。
 

1:00 「南草津病院」が目に入り、駆け込む。大きな病院だ。


年末で病院は休み。当直の先生と看護婦さん。

血圧 96−78! 脈拍90。心房細動。


医師曰く:本来なら入院のはずだが、大晦日だし循環器の先生不在で入院の意味がなく、
自宅の神奈川まで帰るのはダメ。宿泊予定地の大津に向かうこと。勿論交通機関で行くこと。
安静を保つこと。


薬を渡され、病院を出る。しかし、ほんとに病院があって良かった。
が、歩いてはいけない、これは困った。

仕方なく、電車で大津に向かうことにする。


「近江國(五)」に続く

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