箱根 湯坂路
( 湯坂路=鎌倉古道 )

東海道五十三次

番 外 編 (二)

「湯坂路」は“箱根湯本”から登って行くことも出来れば、バス等で“湯坂路入口”まで上り、
相模湾を望みながら下って来ることも出来る。

2006.11.17(金)
バス停「湯坂路入口」から「箱根湯元」まで、下るコースを歩く。

バス:箱根湯元ー湯坂路入口・25分・710円

箱根「湯坂路」は江戸時代の「旧東海道」開通以前に歩かれた箱根越えの古道。
“伊勢物語”の在原業平、“十六夜日記”の阿仏尼、鎌倉幕府の将軍たちも歩いた道である。


須雲川沿いの暗い「旧東海道」と違い、尾根上を歩くので、明るく楽しい。



赤い実をいっぱいにつけたこの木は何というのだろう?
ご存知の方、教えてください。

※掲示板を通して「皐月」さんから“マユミ”と教えて頂きました。
ありがとうございます。




枯れた紫陽花が続く。6月頃はきれいだろう、と思っていたら、な、なんと、白い紫陽花が一輪、咲き残っていた!
11月の半ばだというのに! この他にも青い小さな紫陽花がニ、三輪あった。(2006.11.17)


曇っていたのでハッキリ写っていないが、稜線の彼方は海、相模湾である。

建保6年(1218)、源実朝が、

“箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ”
 “大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも”

と詠んだのはこの辺りかな、と思う。

江戸時代になり交通量の増加、そして主には戦略上の理由などから
この「湯坂路」は、須雲川沿いの「旧東海道」に替えられ、役目を終わった。


戦略上の理由:
道の維持、通行者の便宜を考えれば日当たりの良い尾根道(湯坂路)の方が好条件であるにもかかわらず、家康は条件の悪い谷沿いの道を造った。

つまり江戸に幕府を開いた家康は、箱根山を江戸防衛の最前線と考えた。上方から攻め上ってくる謀反の輩をこの箱根山で迎え討つためには、三島から箱根峠までは敵軍の動きが一目でわかる尾根上の道、ひとたび箱根山を突破された時は、敵軍が攻撃目標を見定めながら進軍できる見晴らしの良い尾根筋の道では都合が悪く、逆に防衛側(徳川側)としてみれば尾根筋を押さえ、敵を谷沿いに誘い込むことにより、上から攻撃を仕掛けることができるという利点のある谷沿いの道が必要であった。

湯坂路は特に紅葉の名所ではないが、この時季日本はどこでも紅葉が見られる。


石畳。800年前、言ってみればここが「国道一号線」であった。


浅間山山頂:

鮭のニギリメシが大好きである。

そして山で、天ぷら(掻き揚げ)をニギリメシと一緒に食べるとほんとにうまいのだ!

大平台分岐:
秋の陽だまりの中、すすきが揺れる。



殆んどのアザミは枯れていたが、やっと咲いているのを見つけた。


秋の、のんびり一日ハイキングであった。


杉林になると、麓の「箱根湯元」も近い。


「番外編(三)」:“東海道歩き”の大勢の仲間 に続く。


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