崖っぷちの村(その二) |
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記録:平成19年01月25日 | ||||||||||||||||||||||
掲載:平成19年03月10日 | ||||||||||||||||||||||
チーム田力の高奥 |
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その村は、ネパールでもインド国境にほど近い場所にある。そこからもう少し歩を延ばせば、お釈迦様の誕生の地である「ルンビニ」がある。 「ルンビニに行ってみたいか?」、ネパール人の友人「スリヤ」が暴走運転にもほどがある車の中で、私を振り向きそう言った。 「今回はスリヤの現場視察を優先しよう。」 私はそう答えた。本当であれば、そのお釈迦様の誕生の地に行きたい気持ちはあった。そしてこれまでの人生で失ってきた何人かの知人を弔いたい、
そんな気持ちがあったが、一方で今の私にはまだ早いとの気持ちもあった。日々怠惰な生活を送る私が、その神聖なる地に行くけば罰があたる、そんな気がしたのである。 平坦な地に伸びるハイウェイを突っ切り、そこに広がる疎林を抜けると小さな村があった。 車を降り、村人の歓迎を受けた後、その村のはずれを流れる川に案内された。川幅は目測で200m近くあるが、流水幅は20m程度しかない。その時は乾期であったから、雨期には川幅200mに渡って増水するのであろう。
「あそこに草が生えている部分があるだろう。」スリヤが指を指した。玉石が堆積する川縁にこんもりとした緑の塊がある。 「去年は、あそこまで林があったが、浸食されてしまった。」 「え!?」私は、もう一度確認のために聞き返した。 目測で、川岸の崖からそのの緑塊まで30mはあろう。とすれば1年で30mの土地が、川の増水により失われたことになる。
これが原自然の現実なのだなと思い知らされた。原自然とは荒々しく人間に牙をむく存在である。河川をコンクリートで覆い、水害というものを意識することも少なくなった日本では、この原自然の現実が見えなくなっている。 私は川から視線を反対方向に向けた、60mほど向こうには粗末な掘っ建て家屋がある。 「あと二年で、あの家屋は流されてしまうのか?」 「そういうことになるな。」スリヤは続けた 「あれはローカースト(カースト制度の低位に位置づけられる人々)の家でね。彼らは収入の道が閉ざされている。それで、この川岸の対岸、あの川縁のところが高くなっているだろ。」
「あの場所にローカーストの人達の畑を作ってやりたいんだ。それでだ、ミスター高奥、相談だが、あの場所で何か農作物が作れないか?」 「え!?」再び、私は動揺せざる得なかった。 「川の中州で畑作?できるわけがない。」そう心の中でつぶやいたが、まずはその現場に行ってみることにした。 水が流れている場所よりも1mほど土砂が盛り上がっている。しかし、増水時にはそこが川の水面下に沈むのは明らかであり、そしてその激流は単に土地を水に沈めるだけではなく、その土地の土砂も一緒に流しさることになるであろう。 同行した村人が私を囲む中、私はその土地の土を手で握ってみた。サラサラとした砂が握った手の中からこぼれ落ちていく。付近を見回せば小さな転石が散らばっており、単年生の丈の低い雑草がちらほらと繁茂していた。 「まずは・・・」私を取り囲む村人達の顔を見回しながら、私は解説した。 「まずは農業に取り組む前に現況を知る必要がある。川がどっから流れてくるのか、それはインターネットのグーグルアースで調べることができる。次に雨量だ。」 「雨量については簡単な方法で調べることができる。ドラム缶でもなんでもいい、水を貯めることのできる容器を家のそばに置いておく、雨が降ると、そこに水が溜まるだろ。そしたらそのドラム缶の水位を図っておく、雨の降り始めの時間と、終わった時間もだ。」 「雨量がわかり、川がどっから流れてくるかわかれば、おおよそ川の流量を予測できる。そして流量がわかれば、増水時の川の水位も予想できる。」 私は、そこまで解説して、ちょっと面倒だなと反省した。そしてスリヤにプレゼントしたデジカメのことを思い出した。 「いや、そんな面倒なことをしなくてもよい、川の中に木の柱を立ててくれ、そしてその柱にペンキで目盛りを書いておく。それを雨期に写真撮影して、日本にメールで送ってくれ。そうすれば川の水位がわかり、その場所で畑作ができるか検討することができる。」
私たちは、その村を後にした。疎林の木漏れ日が差し込む田舎路を走る車の中で、いずれにしても、そこでの畑作は難しいであろうと考えていた。唯一の可能性は、川の増水期間がどの程度続くかである。もし増水期間が短ければ、それ以外の期間には畑作が行えるかもしれない。ただし、あの痩せた土壌で・・・いや土壌にも至らない砂で何ができるというのか。 次の村を訪問した。前回をさらに上回る大歓迎を受ける。村の人々が次々に花輪を持ってきては、私の首にかけていった。 「ちがう、私はそんな大それた人間ではない、ただ事の成り行きで・・・」そんな動揺を感じていると、すぐに私の首に入らないくらいの花輪が積まれていった。
やはりこの川岸も浸食された崖になっており、その高さは6mほどあろうか。ふと見ると、小さなフトンカゴ(これは土木用語であり、鉄線の網で30cm程度の石を包んだもの。角形をしており、コンクリートの代わりとして土留めなどに使われる。)があった。
「小さい・・・」、この大きな川から岸を保護するには、あまりにも「わずかな」数のフトンカゴであった。 「あんまりいい感じじゃないだろ。」スリヤが言った。聞くと、このわずかなフトンカゴは、政府が治水対策のために講じた僅かな予算で設置されたものである。ネパールにおいては「政府の力」と「自然の力」その比率が、日本とは大きく異なることに気が付かされる。
その村では、昼食をご馳走になった。民家の庭にテーブルが置かれ、そこにカレーと水の入ったコップが並べられた。既に昼過ぎの時刻であったが気温は上昇している。ネパールの一日の寒暖差は大きく、朝晩は寒いが日中は汗ばむくらいに暑い。そのため、ネパールを旅行する際に、暑さ、寒さ、いずれの装備が必要になるか判断に悩むことになった。 私は、朝晩の寒さをしのげる服装を基本とし、長めの冬用のジャンパーを着用していた。そのため日中の移動では汗をかき、それゆえに喉が乾いていた。そのためカレーの脇におかれたグラスを見るなり、私は脇目もふらずその水をゴクリと飲んだ。
「しまった!」、飲んでからそう思った。改めて説明する必要も無いが、日本人が海外を旅行する場合、水を飲むのには注意を要する。これは例えホテルであろうと食堂であろうと同様であり、田舎の家で出される水であるなら、なおのこと注意を要するはずである。水については、それまでにずっと注意してきたが、緊張が続いていたためか、つい魔が差してしまった。 ふと向こう見ると、手動ポンプでキコキコやりながら楽しそうに子供達が水を汲んでいた。 「うまいか?」その家の老人がスリヤを交えながら私に尋ねてきた。それをスリヤが英語に翻訳して私に伝える。 「うまいです。野菜が多くて健康的ですね。」今度は私が、英語でスリヤに伝えた。スリヤはそれをネパール語に訳して、老人に伝えた。
またスリヤもそうであったが菜食主義者も多く、カレーには肉が入らない場合が多い。ゆえに当地ではベジタブルカレーばかり食べていた。 昼食が終わり、その村を後にする時がやってきた。いよいよ車に乗りこもうとすると、その村の幹部と思わしき目つきの鋭い男が駆け寄ってきた。 「この村は、川の浸食でなくなりつつある。なんとかならないか。」その男は涙目になっていた。 私は「自然は偉大であるゆえ、人ができることは限られている。しかし、何かできないか私も考えてみる。」それだけ告げて、その男と堅い握手を交わし村を去った。 結局のところ村で飲んだ水で腹痛を起こすこともなく、その後、いくつかのスケジュールを消化して日本に帰国した。
日本に戻り、またありきたりな日常の日々が継続することになったが、今でも崖っぷちの村で出会った「男の目」を忘れることができずにいる。私の住む仙台から、その村まで直線距離にして5千5百キロある。成田空港から出発すれば、バンコクで乗り換えが必要であり、仙台から出発すれば、行くだけで2日かかるのがネパールである。 しかしながら戌年の私は、また一つ棒にぶつかったのかもしれない。「徒手空拳でも、ここまで「稲と雑草と白鳥と人間」を続けることができたからな。」そう自分に言い聞かせ、そして「稲」、「雑草」、「白鳥」、その次に「人間」を相手しながら新しい「稲と雑草と白鳥と人間」を作って行けたらな、そう考えることにした。 「それにしてもお前の周りには、俺も含めて金の無いやつばかり集まってくるよな。いいか、お前はいろいろ人の苦労を背負うようにできているようだ。だから、それはそれとしてあきらめ、その方向で思いっきり活躍してくれ。」相棒の菅原さんは、そう励ましてくれた。 |
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