〜日本最古の歴史書・古事記には,阿波のことが書かれています。〜

第1回
古事記に書かれている阿波

 日本最古の歴史書といわれる,太安万侶によって712年に書かれたという古事記を読んでいると不思議なことを感じる。
 古事記に書かれる国生みには,「イザナギとイザナミが,淡路島・四国・九州・壱岐・対馬へと国を創っていった。」と書かれ,国生みが,阿波の周辺から始まったと書かれているにもかかわらず,古事記の物語は,九州(宮崎県)や出雲(島根県)の話であるかのごとく教え込まれ,そう思い込んでいる。阿波に住む人でさえも,阿波に存在する事実を日々見て暮らしていても,古事記と阿波は何の関係ないと思い込んでいるか,または古事記に書かれることは架空の話か作り話であると思わされている。しかし,仮に古事記の話に事実が書かれてないとしても,古事記には,阿波の周辺から国生みが始まったと書かれている以上,そこに着目して古事記を読み,書き進めていこうと思う。
 古事記の物語は,出雲と高天原を舞台として繰り広げられている。しかし,出雲というとすぐ島根県に当てはめるが,出雲については,現在の識者の間でも古事記に書かれる出雲と「出雲風土記」に書かれる出雲とは,その書かれていることが違う事から,古事記に書かれる出雲と島根県の出雲は別物の出雲であると考えられている。しかし,その古事記に書かれる出雲がどこにあたるか分からないので,古事記に書かれる出雲は大和政権がつくった架空の出雲の物語であるとしている。
 事実,先に書いたとおり,古事記には国生みの際に出雲(山陰地方)をつくったことが書かれていない。書かれていない以上,出雲を島根県に当てはめることはできない。また,古事記に書かれる近畿から東は,当時まだ一つにまとまっておらず,別の文化圏であるので,現在の日本全体に当てはめて読むと矛盾する点が生じる。
 以上の事から国生みした範囲の中に高天原と出雲があり,出雲と高天原が古事記に書かれる何れの地にあるかということが,古事記を読み解くキーポイントになるのである。


第2回
阿波はイ(飯)の国(1)

 「徳島県が,古くは阿波といっていた」ということは知っているが,阿波といい始める以前に,イの国と呼ばれる時代があったことは,教えられていないし,思ってもいないのではないだろうか。しかし,古事記や日本書紀等の古い文献を読むと,阿波という前は,「イの国と呼ばれていた」と理解することができるのである。
 古事記や日本書紀などの古い文献をみると,四国は「伊予の二名島」あるいは「伊予の二名洲」等と書かれている。この「伊予の二名島」には,どういう意味があるのだろうか?
 テレビの天気予報で,愛媛県を「東予…,中予…,南予…」と言っている。JRも予讃線・予土線と「予」を使い,また,古くから「予」を使っていることは,愛媛県史等の文献からも確認することができる。つまり,四国西部が,予の国と呼ばれていたことがわかってくる。四国西部が「予の国」ならば,四国東部は「イの国では…」と,想像してしまう。
 祖谷を知らない人は「ソタニ」と読むだろうが,祖谷と書いて「イヤ」と読む。何の疑問もなく「イヤ」と読んでいるが,「イの谷」である。つまり,イの国の谷を示している。そういえば,徳島県には,イのつく地名が多いことに気づくであろう。(阿波はイの国,次回(2)で詳しく)
 この伊予の二名島を正しく理解せずに古事記等を短絡的に理解し教育したため,日本の歴史地図が大きく狂い,その結果,古事記等が伝えていることから大きく外れ,出雲・日向の物語を示してもいない島根県や宮崎県にあてはめて読んでしまったのである。


第3回
阿波はイ(飯)の国(2)

 古事記に書かれる伊予の二名島とは,四国東部をイの国,西部を予の国といっていた時代の呼び名であるが,四国西部が予の国ということは,現代でも愛媛県で予州が使われているから異論のないところであろう。しかし,阿波がイの国であったことは,現在,阿波に住む人々でさえ,ごく一部の人を除き意識していない。そこで,阿波がイの国であったことを詳しく検証してみたい。
 阿波がイの国であったということは,徳島県庁が現在発行している徳島県の観光地図を見るだけでもおおよそは知ることができるので,徳島県発行の観光地図があれば,それを見ながら確認していただきたい。
 四国のヘソといわれる池田町から香川県に抜ける峠が猪ノ鼻峠である。そこから香川県に入った綾歌郡綾上町にも猪ノ鼻地名があり,また,淡路島の洲本市の南西に猪鼻の地名があり,徳島県の南の端,宍喰町にも猪ノ鼻がある。「鼻」は,端を意味しており,地図上の岬に鼻の付いた地名を探していただければ,すぐに一つや二つは見つかるであろう。
 次に,猪の頭という地名が,県の中央部,名西郡神山町に1ヶ所,美馬郡木屋平村に二ヶ所ある。「頭」は,「上・先・はじめ」の意味である。県の端に猪ノ鼻,中央部に猪の頭は,イの国を表している。
 徳島県には,その他にも「イ」のつく地名が,井ノ谷・井ノ元・井内・井ノ尻・井ノ口・井ノ浦・井川・井ノ原・井沢・石井・伊島・猪ノ谷・猪尻・飯尾・飯谷など他にも数多くの地名がある。これら見ても阿波と言い始める以前は,イの国であったことがわかる。次回も古事記に基づき別の角度から阿波がイの国であったことを検証しよう。


第4回
阿波はイ(飯)の国(3)

 四国では,「讃岐男に阿波女」とよく云われているが,それは古事記の書かれる以前から,そう云われていたことだったかも知れない。
 古事記には,イザナギとイザナミが国を作り始め,
1.淡道の穂の狭別島(あわじのほのさわけじま)(淡路島)から
2.伊予の二名島(いよのふたなじま)(四国)
     ア.粟 国は,大宜都比賣(おおげつひめ)
     イ.讃岐国は,飯依比古(いひよりひこ)
     ウ.伊予国は,愛比賣(えひめ)
     エ.土佐国は,建依別(たけよりわけ)
を作ったと書かれている。
 阿波の大宜都比賣(おおげつひめ)は,五穀の神であり食糧の神である。大宜都比賣(おおげつひめ)が食糧の神であるということは,ここで説明する必要はないと思うが,知らない方は他の文献で確認していただきたい。
 その食糧,飯に依るのが,讃岐国の飯依比古(いひよりひこ),つまり,阿波の女性に依存する男性というのである。
 現在でも,阿波から讃岐に吉野川の水を分けている事から見ても,その関係は今も昔も変わらない。
 これらのことから見ても,古事記に示されているのは,阿波がイの国(飯の国)であり,四国東半部がイの国と呼ばれていたことがわかる。
 現在,大宜都比賣(おおげつひめ)が祀られているのは,徳島県名西郡神山町にある上一宮大粟神社と,徳島県鳴門市堂の浦の阿波井神社である。
 飯依比古(いひよりひこ)を祀るのは,香川県綾歌郡飯山町にある飯野山の飯(いい)神社である。飯野山は,別名讃岐富士と呼ばれ親しまれている。
 飯依比古(いひよりひこ)は讃岐の国の代名詞であり,飯野山山頂には,神が舞い降りたという岩,磐座(いわくら)があり,その飯神社には,磐境(いわさか)という信仰の跡が残されている。


【飯野山,別名 讃岐富士】

第5回
オノコロ島(淤能碁呂島)

 淤能碁呂島(おのごろしま)は,イザナギとイザナミが,漂える国を修(おさ)め作り固めようと矛でかきまわして,最初にできた島だと古事記に書かれている。
 通常オノコロ島を淡路島や沼島にあてはめるが,そこにあてはめると物語のつじつまが合わなくなる。オノコロ島は,スサノヲが母を慕って移り住んだ地,母の国,根の堅州國でもある。
 古事記研究者の正木学氏が,「古事記眼」(水谷清氏 著)に書かれる「桶へ砂を混じた水を容れ,旋回すれば中心に砂の累積するを見ても明瞭なことでせう」をヒントに実験装置を製作し実験した。
 容器の中に入れた水と砂をかき回すと渦のあと容器の中心に砂が集まり島が形成された。
 その結果,鳴門海峡に渦はできても渦の後に島ができるような場所はないので,周りが囲まれた地形で渦が巻くような条件にあてはまる場所を探すと徳島県美馬郡穴吹町の舞中島では?となった。
 舞中島は,大河吉野川の上流約40kmの阿波町岩津の上流にある。岩津は,北から阿讃山脈の扇状地が張り出し,南は剣山系の高越山・種穂山が迫り,川幅が150mと極端に狭くなっている。増水時には,その上流にある穴吹川・貞光川・半田川,北から曽江谷川・大谷川等から大量の土砂が流れ込み,岩津で堰き止められた水が渦と舞って舞中島が形成されたのであろう。舞中島という地名そのものが,オノコロ島を連想する地名であり,また,全国にある式内社3,132社の中で伊射那美神社は,阿波国の舞中島にある一社のみである。
 これらの条件から見ても,また,この後に続く古事記の物語の流れからみても,オノコロ島は舞中島と考えられる。


第6回
水蛭子と淡島

 オノコロ島に降りたイザナギとイザナミは,最初に水蛭子(ひるこ)と淡島を生んだと古事記に書かれている。
 水蛭子は,不詳の子として通常考えられているが,後に続く淡島や淡路島,伊予二名島,筑紫島など島が続く文脈から考え,水蛭子だけを人と考えることは不自然である。
 広辞苑などの辞書を見ても,「ひる」は「干る」とあり,乾く意味もある。徳島県三好郡三好町に昼間という地名があり「この地名は干沼から転じたもの」と角川日本地名大事典に書かれている。
 水蛭子は,土地を表しており,島と書かれていないのであるから,吉野川河岸の低湿地のことである。
 「子」は,辞書に「ものを表すのに添える語」と書かれ,振り子,呼び子などの例が書かれている。
 「子」に意味をもたせるとすれば,「処・拠」の意であろう。
 舞中島(オノコロ島)より吉野川下流約10kmに善入寺島がある。この島は,日本最大の中州である。古くは淡島と呼ばれ,現在も島内やその周辺に粟島地名が残っている。
 阿波には,オノコロ島・水蛭子・淡島と古事記に当てはまるように並んでいる。徳島県埋蔵文化財センターのパンフレットを見ても,二万年前ころから吉野川,上・中流域を中心に人々の暮らしが始まり,一万二千年前ころから吉野川下流域にも人々の暮らしが広がったと書かれていることは,これらの事を示すものである。

【善入寺島】

第7回
国生みと淡路島

 古事記によると,オノコロ島から水蛭子(ひるこ)と淡島を生んだ後,イザナギとイザナミは,
   淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)(淡路島)
   伊予二名島(四国)粟国,讃岐国,伊予国,土佐国
   隠伎の三子島
   筑紫島(九州)筑紫国,豊国,肥国,熊曾国
   伊伎島(壱岐島)
   津島(対馬島)
   佐渡島
   大倭豊秋津島(畿内)
以上の国を先につくったと書かれているように,阿波の周辺から国生みが始まったと書かれている。この記述を読んだだけで,阿波から国生みが始まったことを古事記は伝えていることがわかる。一般には,淡路島が最初につくられた島といわれている。確かに淡路島は,最初につくられた島である。
 古事記に「水蛭子(ひるこ)や淡島は子の数に入れず」と書かれているのは,できが悪かったから子の数に入れなかったという意味ではなく,水蛭子(ひるこ)や淡島は,子を生む親であるから子にあたらないとわざわざ書いているのである。
 古事記に「淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)」と書かれるように,穂(阿波)の先の別れた島であり,淡路島は,江戸時代まで阿波に含まれる一地域であった。淡道とは,阿波が先にあったから阿波への道,阿波路となったのである。もし,淡路島が先にできたなら阿波への道を意味する島名にはならなかったであろう。
 このように阿波から淡路島,四国,九州,畿内へと広がっていったのだから,現在の日本の東北や北海道の神社に天照大御神(あまてらすおおみかみ)が祀られているのは,阿波の文化が広がったことを示しているのである。古代から東北や北海道に天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀っていたという記録はない。古事記をすなおに正確に読めば,現在の日本の文化は,阿波から始まり発展してきたことがわかる。
 阿波は,阿の波(あの波)。阿吽の阿。つまり始まりの波を表しているのである。


第8回
国生みで造られなかった出雲

 古事記には,イザナギとイザナミがオノコロ島から水蛭子(ひるこ)と淡島を生んだ後,
1.淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)(淡路島)
2.伊予二名島(四国)粟国,讃岐国,伊予国,土佐国
3.隠伎の三子島
4.筑紫島(九州)筑紫国,豊国,肥国,熊曾国
5.伊伎島(壱岐島)
6.津島(対馬島)
7.佐渡島
8.大倭豊秋津島(畿内)
先に大八島(おおやしま)を作ったと書かれ,古代の日本(やまと)の勢力範囲を示している。しかし,國造りの後に古事記の舞台となる出雲は作ったと書かれていないのである。にもかかわらず,その出雲を書かれてもいない島根県にあてはめ,その読み間違えたままの古事記解釈が現在も伝え続けられ,出雲は島根県のことと思い込んでいる。しかし,地図を見ればわかるように,古代の日本(やまと)の勢力範囲の中に中国地方は含まれていない。故に,國造りの後に書かれる出雲は,現在の島根県でないことは明らかである。
 古事記に書かれる出雲は,國造りで作られた範囲の中に出雲をあてはめて読まなければ,古事記を正確に読んでいるとはいえない。
 では,古事記に書かれる出雲は,どこになるのであろうか?
 阿波の呼び名は,阿波としか伝わっていないが,「阿波と古事記」第2回から第4回で書いたように,阿波の古い呼び名をイの国と呼んでいたことが,古事記や日本書紀などの新しい研究からわかってきた。この事から古事記に書かれる出雲は,阿波の海岸部,つまり,イの国(阿波)の面(も)をイツモと呼んでいたようである。これらのことから古事記の舞台である出雲と高天原は,阿波の海岸部分と山間部(神山町・木屋平村周辺)を指して書かれていると考えられるのである。


【黒い部分が古事記に書かれる日本(やまと)

第9回
筑紫と大和について

 古事記の最初に,国が作られ,それぞれの国には,またの名が付いている事が書かれている。
淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)(淡路島)
伊予(いよ)の二名島(ふたなしま)(四国)
   粟国(あわのくに)は,大宜都比賣(おおげつひめ)
   讃岐国(さぬきのくに)は,飯依比古(いひよりひこ)
   伊予国(いよのくに)は,愛比賣(えひめ)
   土佐国(とさのくに)は,建依別(たけよりわけ)
隠伎(おき)の三子島(みつごのしま)天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
筑紫島(つくしのしま)(九州)
   筑紫国(つくしのくに)は,白日別(しらひわけ)
   豊国(とよのくに)は,豊日別(とよひわけ)
   肥国(ひのくに)は,建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)
   熊曾国(くまそのくに)は,建日別(たけひわけ)
伊伎島(いきのしま)(壱岐島)天比登都柱(あめひとつばしら)
津島(つしま)(対馬島)天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)
佐渡島(さどのしま)
大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)(畿内)天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
 それぞれの国のまたの名を見ると,四国の比売(ひめ)や比古(ひこ)の付く個性的なまたの名に対して,九州は,すべて日別(ひわけ)や別(わけ)の付く別(わけ)の国である。次に畿内である大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)のまたの名は,根別(ねわけ)と書かれている。根別(ねわけ)とは,根から別れた国という意味の根別国(ねわけのくに)である。根別国(ねわけのくに)が,別(わけ)の国から別れてできることはないので,別れる前の本(ほん)の国はどこかとなると,古事記を読む範囲では,阿波ということになる。
 古事記の国生みは,阿波を中心に書かれていることは,讃岐国(さぬきのくに)の飯依比古(いひよりひこ)が,阿波(イの国)によりつく等(第2回〜4回参照)の例からもわかることで,国生みの後,粟国(あわのくに)の大宜都比賣(おおげつひめ)だけが古事記に登場することからも,古事記の主人公は,天照大御神ではなく大宜都比賣(おおげつひめ)であり,古事記の舞台は,筑紫や大和ではなく阿波である。

第10回
隠岐島と佐渡島

 古事記の国生みで気にかかる所は,隠岐島と佐渡島である。国生みは,下記の順番で造られたと書かれている。
1.淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま) (淡路島)
2.伊予二名島 (四国)
3.隠伎の三子島 天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
4.筑紫島 (九州)
5.伊伎島 天比登都柱(あめのひとつばしら) (壱岐島)
6.津 島 天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ) (対馬島)
7.佐渡島
8.大倭豊秋津島 天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ) (畿内)
 江戸時代の本居宣長は,その著「古事記伝」に,1.淡路島から,2.四国と来て,3.隠伎の三子島を日本海にある隠岐島にあてはめると,その順序もおかしく(その後は,時計回りに進んでいる)又,隠伎の三子島と書かれているにもかかわらず,日本海にある隠岐島は,島前・島後の四島からなる島であるから数が合わないと書きながら,島前の三島を古事記の隠伎の三子島にあてている。
 ということで,やはり,隠伎の三子島は,四国周辺を探さなければならない。
 そこで,四国の東にある三島からなる伊島がそれであろうと推測され,古事記の記述にも適合する。
 次に,佐渡島であるが,古事記には佐渡島のみ又の名が付いていないことや,その当時の勢力範囲から見ても離れすぎているので,佐渡島は古事記が書かれた時点で書き加えられたものと推測する。