第11回
伊勢神宮に祀られる阿波の大宜都比賣
古事記の国生みに書かれた国々の中で,古事記に何度も現れるのは,阿波国の大宜都比賣(おおげつひめ)だけである。よって古事記の主人公は,阿波国の大宜都比賣(おおげつひめ)であると考えられる。
大宜都比賣(おおげつひめ)の「ケ」は,古語で食のことを「ケ」といい,後に,生きていく上で不可欠な「衣・食・住」のすべてを「ケ」で表現し,今日,「気」という言葉が,元気・勇気・やる気・気にする・気がない・気が早い等々,日常にも使われ,物質的なものにとどまらず本源的エネルギーも含め「気」が使われている。
伊勢神宮,外宮(げぐう)に祀られる豊受大神(とようけのおおかみ)の「ケ」も食の意味である。
第21代雄略天皇の夢枕に天照大御神が立ち,「自分は独り身で淋しいから,朝夕に奉る御饌の神として,丹波国比治の真名井より,等由気(とようけの)大神を迎えよ。」と告げたので,五世紀に丹波の国(今の京都府北部)より伊勢にお迎えし,天照大御神(あまてらすおおみかみ)の食事を司る神として伊勢神宮の外宮に祀られるようになった。
豊受大神(とようけのおおかみ)は,『延喜式神名帳』に書かれる阿波国の和奈作意富曾(わなさおふそ)神社の豊宇賀能売神(とようかのめのかみ)を奉ずる和奈佐(わなさ)神人集団が広く宣布したもので,この神が漂泊したのち奈具の社に止まることが,『丹後国風土記』に書かれる。それには,老夫婦の名が和奈佐(わなさ)と書かれ,豊宇賀能売神(とようかのめのかみ)を宣布した神人集団の名が見え,この神人集団が廻国宣教していたことを物語っている。
また,『出雲国風土記』に書かれる阿波枳閉和奈佐比古(あはきへわなさひこ)神社は,アワキへは阿波から来たという意味を示すので,この神人集団の本拠地が阿波国にあったことを示している。
以上のことから伊勢神宮の外宮に祀られる阿波の大宜都比賣(おおげつひめ)は,豊受大神(とようけのおおかみ)や稲荷大神等と神名を変えて祀られているのである。
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第12回
延喜式内社(えんぎしきないしゃ)・意富斗能地神(おほとのぢのかみ)
徳島市上八万町上中筋558番地にある宅宮神社(えのみやじんじゃ)は,もと延喜式内社(えんぎしきないしゃ)・意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)といわれ,社の御祭神は大苫邊尊(おおとまべのみこと)である。
古事記によるとこの御祭神は,イザナギ・イザナミの神が生まれる前に意富斗能地神(おほとのぢのかみ)と妹大斗乃神(いもおほとのべのかみ)が生まれたと書かれる神で,日本書紀にも両神が生まれる前に大苫邊尊(おおとまべのみこと)が生まれたと書かれている神である。
延喜式内社(えんぎしきないしゃ)とは,平安時代に編纂された延喜式神名帳(927年完成)に記録された,その当時の由緒ある2,861社(3,132座)の神社のことである。
阿波国には47社(50座)が記録されているが,不思議なことに延喜式内社の記録には,意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)や美馬郡の伊射奈美神社(いざなみじんじゃ)など,全国で一社しか存在しない式内社(しきないしゃ)が,なぜか阿波には多い。その式内社をみるだけでも,古事記の舞台は阿波であることがわかる。
三代実録によると意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)の神位は,清和天皇貞観16年(874年)に従五位に叙せられている。もとの旧社地跡は,現社地の南方約200m山腹にあったが,天正年間(戦国時代)に土佐の長曽我部元親(ちょうそがべもとちか)による阿波国進攻の際に兵火により社殿が焼失した。後,新しく現在の地に社殿が建立された。
当神社には,神代文字の阿波文字の古い版木が所蔵されている。この阿波文字は,徳島県名東郡佐那河内村の大宮神社に伝えられる古代の文字である。阿波文字で書かれた蔵書は,大磯食神社(長野県駒ヶ根市)『神代文字社伝記』・『神代文字中臣拔・射和文庫』などが残っている。
また,神踊り(徳島市重要文化財習俗技芸)が,昔のままに毎年旧暦7月16日(現在は,8月15日)に絶えることなく踊られている。
【宅宮神社】
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第13回
延喜式内社・伊邪那美神社
延喜式内社の伊邪那岐神社は,淡路や近江を始めとして八社記録されているにもかかわらず,伊邪那美神社は一社しか存在しない。しかもそれは,阿波の美馬郡にあったと書かれ「三代実録」にも「貞観十一年(869)阿波国正六位上伊射奈美神従五位」と神階を記されているのであるから,これらの事実からも古事記の舞台が阿波であったことを感じさせるものである。
しかし伊邪那美神社に比定される神社は,高越山山頂にある高越神社や,穴吹町の舞中島に鎮座する伊邪那美神社等に比定されているが,古事記には,「出雲国と伯伎国(ははぎのくに)との堺との比婆の山に葬りき」と書かれている。(出雲国と伯伎国(ははぎのくに)については,次回)
最初にオノゴロ島(第五・六・七回 オノコロ島 参照)に降りて生活していたので,舞中島に伊邪那美神社があることは,舞中島がオノゴロ島であることを強める。社殿は,吉野川の中にある舞中島の最も高い位置にあるため,たび重なる洪水にも被害を受けなかったと言われている。
境内の岩盤の上に鎮座する社殿を見ると,いかにもここはオノゴロ島であることをなお感じさせ,伊邪那岐神と伊邪那美神が生活をされた所であることを思い起こすものである。
また,舞中島から見上げる高越山山頂に伊邪那美神社があることは,「比婆の山に葬りき」と書かれるように伊邪那美神を高越山に葬ったことを,なお感じさせるのである。
【伊邪那美神社】
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第14回
出雲国と伯伎国
古事記に「伊邪奈美神は,出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬(ほうむ)りき」と書かれる箇所が,出雲国の初見である。
現在の人は出雲を島根県とあてはめて考えるだろうが,第8回「国生みで造られなかった出雲」でも書いたが,古事記には山陰地方が初期の日本国の中に書かれていないので,島根県は当時の日本文化圏外の地域であったと考えられる。
それでは古事記に書かれる出雲とは,どこにあたるのだろうか?
徳島県が阿波国と呼ばれるようになる,それ以前の阿波の国名は「イの国」と呼ばれていたことが(第2回〜第4回参照),古事記や日本書紀等の記述から確認することができる。古事記や日本書紀等が,正しく読めなかった原因は,この阿波が「イの国」であったことを確認できなかったために,古事記の舞台,出雲を島根県にあてはめてしまった。出雲は,イの国の海岸部(イの国の面)。つまり,阿波の海岸部をイツモ(伊津面)と呼んでいたのを出雲と書いたのである。
伯伎国は,式内社の伊邪奈美神社がある舞中島を中心とする地域である。(第5・6・13回参照)
阿波では,古くから阿波町岩津付近を境に,上流を上郡,下流を下郡と分けて呼ばれてきたことは,古事記に書かれる,出雲国と伯伎国の境に符合している。その岩津から見上げる高越山は,その見事な山容から別名「阿波冨士」と呼ばれる。この山こそ比婆山に該当する山である。
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第15回
伊邪那美命(いざなみのみこと)が葬(ほうむ)られた比婆山(ひばやま)
「伊邪那美命(いざなみのみこと)は,出雲国(いずものくに)と伯伎国(ははぎのくに)の堺(さかい)の比婆山(ひばやま)に葬(ほうむ)った」と古事記に書かれている。
黄泉の国というと地底と連想するが,葬(ほうむ)った所は山である。比婆山(ひばやま)の「比」の文字の意味は,比べるの意味が現在では強くなっているが,甲骨文字の比は,・等,二人相並ぶ形から起こり,比べるというよりも「親しむ」・「近寄る」という意味より始まっている。
「婆」は,舞うて楽しむ意から老婦の意となった。
これらの意味から比婆山(ひばやま)とは,尊い女性を祀る山を意味していることがわかる。
古代阿波研究所長の堀川豐平氏は,古代阿波通信NO.33号で,比婆山(ひばやま)とは,ヒハイ山であるとして,
「ヒハイ山とは被拝山のことです。周囲から拝まれる山という意味です。高越山の西麓に「拝村」あり,北方には吉野川のむこうに「拝師」(林)「拝原」(榛原)がある。この3か所とも古来高越山を遙拝したので地名になったと言われている。」と書かれている。
また,江戸時代の阿波の歴史書「阿府志」の中に式内社伊射奈美神社は,「美馬郡拝村山之絶頂アリ俗ニ高越大権現」祭神一座 伊射奈美尊と記され,高越山の絶頂にあると記録されている。
そこに暮らした人々が,大河,吉野川中流域に秀麗に聳えたつ高越山に崇高の念を持ったことは自然の成り行きであり,式内社の伊射奈美神社が阿波の麻植郡に全国で一社しかない事からも,伊邪那美命(いざなみのみこと)を葬(ほうむ)った比婆山(ひばやま)とは高越山のことであると考えられる。
【高越山】
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第16回
大山津見神と鹿屋野比売神
イザナギの命とイザナミの命が,国生みの後,「山の神,名は大山津見神(おおやまつみのかみ)を生み,次に野の神,名は鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)を生みき。またの名は野椎神(のづちのかみ)という」と古事記に書かれている。
鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)とは山の神の大山津見神(おおやまつみのかみ)に対して野の神とし,山と野の夫婦神である。また,日本書紀では草祖草野媛命(くさのおやかやのひめのみこと)と書かれ,阿波では,鹿江比売(かえひめ)神のことである。
平安時代に編纂された「延喜式神明帳」に,阿波国には,板野郡(4座)・阿波郡(2座)・美馬郡(12座)・麻植郡(5座)・名方郡(9座)・勝浦郡(11座)・那賀郡(7座)計50座の格式ある神社として記録され,板野郡に式内社の鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)があったと書かれている。
この鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)は,以前に書いた意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)(第12回)・伊邪那美神社(いざなみじんじゃ)(第13回)と共に式内社の中では,阿波に一社だけ存在するのである。
鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)は,徳島県板野郡上板町神宅にあり,神社の北に大山がそびえている。(写真,神社の後の山)この大山の八合目に,力餅運びで有名な大山寺があり,この山が大山津見神(おおやまつみのかみ)のいます山としてあがめられてきた。
この神社は現在,葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)と合祀して祭られている。この葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)は,『続日本紀』に承和9年(842)に従五位下を授けられ,また,『三代実録』に貞観九年(867)に従五位上を授くる,等と記録される古社である。
他県のように,大きな神社が一座だけ祭られ,古事記の記述とはつじつまが合わないのとは大きな違いである。他県に無いように,阿波には,古事記に記述される夫婦神として存在する。なおその上,古事記全般にわたって古代にさかのぼれば,ますます古事記の舞台が阿波であることは明白な事実となる。
【鹿江比売神社】
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第17回
大宜都比売神(おおげつひめのかみ)と豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)
古事記には,大山津見神(おおやまつみのかみ)と鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)の生まれた後に大宜都比売神(おおげつひめのかみ)が生まれ,伊邪那美命(いざなみのみこと)が亡くなった後に豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)が生まれたと書かれる。大宜都比売神(おおげつひめのかみ)は,古事記には2度目の登場で,その後,古事記に2度,計4度も書かれ,何度も現れない他の神々とは違い,古事記は,大宜都比売神(おおげつひめのかみ)を中心に書いているとしか読めない。古事記は,阿波を舞台にして書かれているのである。
この大宜都比売神(おおげつひめのかみ)は,第11回にも書いたが,阿波国の祖神であり,穀霊でもある。現在は,伊勢神宮の外宮に,豊受大神(とようけのおおかみ)として祀られている神である。この神名の宜(け)は御膳(みけ)の「け」で,「け」は「うけ」ともいい,食物の総称であるから豊受大神(とようけのおおかみ)も豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)も大宜都比売神(おおげつひめのかみ)と同神である。
大宜都比売神(おおげつひめのかみ)は,徳島県名西郡神山町の神山温泉西側の大粟山にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)や鳴門市の阿波井神社などに祀られている。
上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)は,式外社として『三代実録』に「貞観三年(861)従五位下,元慶七年(883)従五位上を授く」と古くからの記録が残る神社であり,また,神山町には,平形銅剣が4口出土している事などからも,もっと古い時代から人々の営みがあったことがわかる。
神山町を訪れた人は,山村であるにも関わらず,大きな鳥居や荘厳な社殿に驚くが,これらは古くから大宜都比売神(おおげつひめのかみ)を尊崇してきたことを物語っている。
【上一宮大粟神社】
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第18回
彌都波能売神(みつはのめのかみ)
美馬郡は,貞観二年(860年)に美馬郡の西部が三好郡として分離するまで,吉野川上流域の南・北岸にまたがる広大な区域であり,延喜式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)(平安時代907年完成)によると,美馬郡には十二座の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)があったと記録されている。
美馬郡の中には先に紹介した,伊射奈美神社を始め弥都波能売神社(みつはのめじんじゃ)・波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)等がある。これらは全国の式内社の中で阿波だけにしか存在しないが,現在は,この弥都波能売神社(みつはのめじんじゃ)・波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)が美馬郡のどこにあるかはっきりしないが,延喜式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)に記録されているので,阿波国の美馬郡にあったことだけははっきりしている。
候補社とされる神社は数社あるが,美馬郡脇町拝原にある,八大龍王神社が有力な候補社である。この社は,南に高越山を望み神社の近くに清涼かつ豊富な湧き水が出ている。
志賀剛博士は,「ミツハノ女神は水際の女神であるからかかるところに祭るに相応しいのである。」(式内社の研究)と書いている。
また,折口信夫氏も『水の女』に次のように書いている。「阿波の国美馬郡の「弥都波能売神社」は,注意すべき神である。大和のみつはのめと,みつは・みぬまの一つものなる事を示している。美馬の郡名は,みぬま或は,みつま・みるめと音価の動揺していたらしい地名である。地名も神の名から出たに違ひない。」
みつはの神の名が地名から出ているならば,古事記に書かれるイザナミの生んだ弥都波能売神は,阿波の美馬郡生まれであるから,古事記の舞台が阿波である一つの事実でもある。
【八大龍王神社】
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第19回
波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)
古事記には,イザナミの神が亡くなる時に,波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)と波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)が生まれたと書かれている。一方,延喜式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)には,波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)が美馬郡の阿波にあった。この延喜式内社(えんぎしきないしゃ)は先に紹介した意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)(第12回)伊射奈美神社(いざなみじんじゃ)(第15回)・鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)(第16回)・弥都波能売神社(みつはのめじんじゃ)(第18回)等と共に全国の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)(3132座)の中で唯一,阿波のみにある神社である。なぜ,古事記に書かれる神が阿波のみに祀られているのであろうか。しかし,この波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)は,美馬郡の阿波にあったという記録はあるが,現在どこに祀られているかは不明である。いろいろと諸説はあるが,一応ここでは,志賀 剛著の「式内社の研究」を参考にして紹介しておこう。
志賀氏によれば,波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)は美馬郡半田町にある建権現神社(たけごんげんじんじゃ)であろうという。「私はこの社を古代人はハニヤマヒメ(埴山姫)神社と呼んだであろうと思う。村名や社地の半田山は,ハニタ(埴田)の訛音(かおん)であるからこのハニヤマヒメを官社にする時に標記の如き万葉仮名に改めたのであろう。」と書かれている。
このようにイザナミの生んだ神が,他県にはほとんど無く,吉野川周辺に点在するということは,イザナミとイザナギの神が吉野川周辺で生活していたことを物語るものと考えられる。この後も,阿波にのみある延喜式内社(えんぎしきないしゃ)を紹介していくが,これらの記録からも阿波が古事記の舞台であったことを物語っているのである。
【建権現神社】
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第20回
建布都神(たけふつのかみ)
イザナミノ神が亡くなった後,イザナギノ命の十拳剣(とつかつるぎ)から飛び散った血から建御雷之神(たけみかづちのかみ),またの名は建布都神(たけふつのかみ)が生まれた。この神は,後に天照大御神の命をうけて葦原中国(あしはらなかつくに)平定の遣(つか)わされる神である。
また,神功皇后が三韓征伐の前途を占った時に,先ず現れたのは伊勢皇太神であり,次に現れたのは阿波郡の建布都神と事代主命であった。と日本書紀に書かれている。これら建布都神社と事代主神社(ことしろぬしじんじゃ)は,ともに延喜式内社として,阿波郡のみにあると記載されているのである。
平安時代中期(927年)に完成した延喜式神名帳に,全国で3132座(2861カ所)の神社が記載されている。この建布都神(たけふつのかみ)を祀る神社を延喜式内社の中から探すと,この建布都神(たけふつのかみ)を祀る神社は,阿波国の阿波郡に一社しかないのである。
古事記の神が,なぜ阿波にのみ祀られるのだろうか? 古事記の舞台が阿波であった事を示す資料である。
建布都神(たけふつのかみ)神社の比定社は数社あるが,今回は徳島県板野郡土成町郡字建布都にある建布都神社をあげておく。
阿讃山脈から流れ出る九頭宇谷川(くづだにがわ)が作った扇状地の扇端部に位置する。土成町一帯は,県下有数の旧石器散布地として知られ,また,多くの古墳も存在し,県下最大級の円墳,丸山古墳などがあることからも古い時代から開けていたことがわかる。
【建布都神社】
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