オホゲツヒメの文学序説

 ―神話(ミュトス)から文学(リテラチュール)へ―

  神山町 上一宮大粟神社神官 阿倍 靖綏

 日本上代(じょうだい)文学の研究分野において『古事記』の神話研究は『萬葉集』と並び国文学科生にとって主要な卒業論文の主題(テーマ)となるだろう。そのため,先行研究は当然ながら一人の文学徒が生涯を費やしても,把握しきれぬ程膨大(ぼうだい)な量となっている。
 ならば,古事記は既(すで)に論じ尽くされたのだろうか。私は,未だ論じ尽くされていないと考えている。その論じられていない一つがオホゲツヒメ研究である。
 周知の通り古事記神話は日本の神々の研究には欠かせぬ基本文献(テクスト)である。それ故(ゆえ)徳島県民がこの厄介な書物に向かう動機の一つは,国霊であるオホゲツヒメについて深く知りたいという欲求ではなかろうか。
 ところが,多くの論文はこの神について,スサノヲ神話と共に少し触れるか,文化人類学の領域で「ハイヌウェレ型」という穀物起源説話に帰納して完結しているのである。
 勿論(もちろん)これらの研究はオホゲツヒメ研究には欠かす事の出来ぬものであるが,しかしこれらの研究には,この神への信仰の歴史への視点が欠けているのである。もし,この視点を持って研究するならば,オホゲツヒメ信仰の史料を残す,阿波の研究を無視出来ないはずである。なぜならば,阿波にはこの神を巡る様々な人間のドラマが残されているではないか。阿波には未だ,再び語られる事を願う物語(ナラティヴ)が存在しているのである。
 確かに,歴史家はこれらの断片(フラグメント)を素材として通史を叙述するのは困難かもしれない。しかし,文学家が文藝を生みだす為にはこれらの素材は未知の可能性を秘めているのではないか。
 私は文学の素材としてオホゲツヒメ神話を読み直したいと考えている。

秋 の 空

               魁生 順一

 小さな私の家には,無線用のアンテナが二本,偉そうに屋根より高く空に伸びている。此のアンテナを見ながら無線業務以外に,感じる事がある。現実の私は,じっと座して居ると何も聞こえない。無線機にしろ,ラジオにしろ電気をONにすると忽ち,雑音交じりの音声や奇麗な音声なり音楽が聞こえて来る。一つの無線機は,韓国を含む国内のアマ局長の声,もう一つの無線機は,極超短波・短波,中波・長波ETC世界中から温かい人の声やモールス信号が聞こえてくる。見知らぬ遥か彼方の銀河星雲からも無数に,電波は飛んで来ていると云う。だが私には解らない。今は亡き懐かしい父母からの電波を受信し様と子供のように期待するのだが,徒労に終わる。電波は見えない。無いと云えば無い! しかし電波は有ると云えば,確かに私達の周囲に幾らでも存在する。音となり,雑音となって聞こえる。仏教の世界も,人々の思惑も,一切善い結果を結ぶ事を目指して努力(修行)する所に,楽しみがあり,幸せがあるのだろう! 法華経の第六の巻には「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」と有る。秋の夜空に星を眺めて思惟するのも面白い。

徳島おさるのはなし

               たかしま れいこ

 おさるの群れがうちのまわりに来始めたのは10年ぐらいまえでした。さいしょはめずらしく子供たちと見に行ったりしていました。
「あのおさるたちは動物園に帰っていくん?」ときくので「かえらない。山にずっといるよ。」と答えました。
 どこかに帰ってくれたらよかったのでしょうけどここがおさるたちの帰る場所らしく、おさるたちはふえるいっぽうのようです。けんかをしたり、柿を食べたり屋根にすわって山をながめながら腰をたたいていたり・・。腰痛??はしっている私の車にうえからダイビングしてきた勇気あるのもいます。こわかった〜。
 これから10年後はどうなっているでしょう
 ヒトはさらに減りサルはさらにふえて、わたしたちのほうが“おり”のなかで暮らしているかもしれません!
 おかあさんざるがこざるをつれて見に来るかな?

キムチたこやき

               平 澄子

 長男が,「『キムチたこやき』のおいしい店があるけん,今度買って来るわ」と言ってから何日も経つのに全然買って来ないので,夕食の時「あのキムチたこやき,どうなったん」と言うと,「ほんならすぐ買って来るわ」とそう言って出掛けて,帰って来たのが11時過ぎ……。
 遅いけど,せっかく買ってくれたので長女と食べる事にしました。
 一口食べると, ホォ 〜
 なんと激辛,口の中がヒリヒリ。2個食べるのが,やっとです。
 長女は頑張って5個,長男は大好きなのか一箱食べていました。すごい!
 買ってくれた事に 感 謝 カンゲキカラ ありがとう。