神に通ずる道      小林 金吾

 朝早く外の空気に触れますと,爽やかな清々しい気持ちになります。
 東の空に眩い光り輝き昇る太陽に思わず手を合わせて祈りたくなるものです。
 これが信仰の源であり,大祖先以来のご先祖より伝わって来た祈りの真行であります。ご先祖の連なりなくては生命の成長はあり得ないのです。
 神は探し求めるものではなく大祖先以来からの生命の中に宿って居る「神性魂」霊魂を呼び覚ますことから始まり,清浄な心身を保ちつつ,天津神,国津神との神人生活を行じて,自他力神性が目覚めたならば人間真の自己であり,拝み奉るものとは別次元のものではなく自己人生に迷いはない。

  注:祈る神は西でもなければ東でもない。
    北(来た)道さがせ南(皆巳)にある。

 私達人間は神の分身(ワケミタマ)であります。本質は明き(アカキ)清き(キヨキ)直き(ナオキ)正しきものです。
 遠い親達大祖先以来のご先祖様たちが実践して伝えてきた日本古来の祈りの「敬神崇祖」を作法によって自魂(自分の神性霊魂)を磨き清めて報恩感謝の念を以て至福繁栄と道が開かれて来たのであります。
 万物人間をはじめ鳥獣虫魚樹木草に至るまで。種族保存。子孫繁栄を求めて民族国家人種,風習または動植物としての仕来りにてそれなりに自然と何かの縁によって成育成長して来たのである。
 人間は神性とか仏性とかいわれる気高き尊ぶ心を持って居ります。だから神仏の子と言われ,神にもなれるし,仏にもなれるのです。それは生き乍ら神の子として徳性豊かな,情,礼儀,気理。知恵が授かっているからです。この徳性魂を磨くと神仏の「み心」にかなって悩みのない生活が出来るのです。……魄魄。
 利害の欲を限りなく出すと〈物〉と〈心〉との釣り合いが取れずに悩みや苦しみが生じて気高き尊き魂霊を曇らせてしまうのです。
 知りつつまたは知らず知らずのうちに罪をつくり,また良かれと思ってやったことが罪となったりする……魄霊,神性魂。仏性魂を曇らせるので。ゆえに世のために人のためにと自魂を磨く即ち自分だけでなく,清く明るく正しき心を持ちつつ修業させて頂く心にて自分以外の人々の為に神仏の子として拝み合いのお世話をしつつ行じることが菩薩行となるのです。その精神が全ての真行の基本であり天地宇宙の教えであり,その神ながらの道は万物の霊長たる人間としてあるべき姿を教えています。だのになぜ霊長の人間が悩み苦しみを持ち,争い殺戮し合うのは〈ねたみ〉〈たかぷり〉〈むさぼり〉など欲望の心が強いからであり,私達の生命を保持するに必要な規制並びに要素をしっかりと身におさめ。肉体の新陳代謝を促し健康と生き生きとした生活力を生み出すには,何事も修業と修練修得してから時代に対応出来るのが人間であり。即ち信仰心をもって目的目標を達成するには行動を起こさなければならない,本を読み,情報を把握しても理解のみでは近づいても体験が伴わない。適切な指導とルールを踏襲して,真行でなければ。だが,苦業ではあるがやらなければとの真念で行じれば何事も到達しまた達成も,出来得るものです。

              結果子 勝 豊

久しぶりにだるまを買いました     広永 敏巳

 今年も1月2日に,親戚の子供と一緒に初詣に行きました。今,中学2年生で,いよいよ来年は高校入試の年です。昔,父にだるまを買ってもらって嬉しかったことを思い出し,彼にも,買ってやることにしました。
 「ありがとう。で,どうするん?!」と聞かれ,
 「だるまに願い事をして,左目を書き入れて,1年後,その願い事がかなったら両目にして,供養するんヨ。」と説明しました。
 と,「何で左目?」ときました。そこで,帰宅後,インターネットで調べることになりました。
 【だるまの目は向かって右目(だるまの左目)から書き入れる。これは,だるまを飾る方位にあるといわれ,普通,南向きが最適といわれる。そうすると,太陽が東から出て西に沈むので,南に向かって東側は左になり,左目から入れる。】とありました。
 「フーン。じゃ西向きにおいたら僕のだるまに太陽は昇ってこないってことか!」
 って,そういうことじゃないだろう?! マ,ガンバレヨ受験生!!

“諸行無常”      坂本 眞人

 「祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず,唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ,偏に風の前の塵に同じ。」と,平家物語にあります。又,「ゆく河の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは,かつ消えかつ結びて,久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖と,又かくのごとし。…朝に死に,夕に生るるならひ,ただ水の泡にぞ似たりける。不知,生れ死ぬる人,いづかたより来りていづかたへか去る。又不知,仮の宿り,誰が為にか心を悩まし,何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと,無常を争ふさま,いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども,朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども,夕を待つ事なし。」と方丈記にあります。
 「諸行」というのは,一切万物すべてということです。「無常」というのは「ああ無情」の「無情」ではありません。仏教をあまり勉強していない頃は,「鐘の音が,この世の無情をなげいているのだなあ。」なんて自己流に解釈していました。又「この世は無情で冷たく淋しいものなのだ。」とも解釈したりしたこともあります。しかし,「諸行無常」の「無常」は「無情」ではないのです。「無常」というのは,「常で無い」といって,「常に固定したものでは無い」ということです。「生々流転」とか「万物流転」ということなのです。
 お釈迦様は,「この世は無常である。無常なればこそ怠ることなかれ!」と諭されています。「この世の中は,大岩石のように押しても引いても動かないものではない。こちら側からの働きかけで,善にも悪にもなる。よって,意識的に努力して,善い方にもっていかなければならない。とろとろと怠っていてはダメですよ。」,「ああ無情という消極的なのではなくて,無常なればこそ,積極的に意識的に努力しなさいよ。」と解釈できそうです。
 戦後60年,阪神淡路大震災から10年といわれます。この復興,復活ぶりはすばらしいものですね。まさに「無常なればこそ怠ることなかれ!」の努力のたまものではないでしょうか。

阿波の鳴門(三)               野口 一夫

 前号で阿波井神社の祭神オオゲツヒメについて投稿し話が少し飛びましたが,阿波の鳴門(一)の阿波井神社の沿革に続き,お隣の高島に付いて書きたいと思います。
 堂浦の隣町に明神(アキノカミ)があり,小鳴門海峡(阿波の水門アワノミト)の上には見事な小鳴門大橋を見ることが出来ます。この橋を渡ると高島になり左側に竹島があります。数年前に,全国海の祭典があり天皇陛下が来られ,この時に大橋とトンネルが完成しました。
 現在,祭典場所はとても広い内海(ウチノミ)公園となっていて,アウトドアスポーツとレジャーが可能となっています。この公園に立ちますと正面に内海が見え,右に大毛山,左に旧阿波井神社の鳥居が見えます。
 高島は戦前は軍事基地があり立ち入り禁止区域でした。古代では自然に作られた最高の軍船基地であったと考えられます。
 内海の中央に小さい島(鏡島)があり,イシコリドメの命が舞い降りたとの言い伝えがあります。毎年,阿波井神社の宮司さんはこの島へ御神食等の祭祀に渡ります。おそらく通信手段として鏡が使用され,この島が中継基地となっていたと思われます。
 高島と言えば神武東征の前に8年間,畿内の情勢を探ったと言われている高島宮が浮かびます。一般的な解釈は九州(日向)→豊予海峡(速水の門)→福岡→広島(安芸の宮・タケリの宮)→岡山(高島宮)と考えられていますが,無理無駄の多い行程で,こじつけ感があり信憑性に欠けます。
 天孫降臨(ニニギノミコト=神武天皇の祖父)の地を国府町の気延山(八倉比売神社=天照大神・多くの古墳群・周辺には久米性=大久米命が日本一多い)に比定すると「竺紫の日向」は東に尽きる所と考えられ鳴門の高島に該当します。速吸の門(ハヤスイノナト)は豊予海峡ではなく鳴門海峡であり厳しい潮筋,複雑な海路があり渦彦(ウズヒコ・シイネツヒコ)の案内を必要としました。無理無駄がなく畿内上陸には最適の場所と思われます。
 では,安芸の宮(アキノミヤ)は何処に比定するのか疑問が残ります。対岸の明神(アキノカミ)に大元神社があり,縁起を聞きますと広島安芸の宮島から勧請したとのことでした。
 古代文化の中心は阿波にあり,八鉾神社(大国主命)から出雲大社,タケミナカタ神社から諏訪大社,ワナサオフソ神社のワナサヒコは真奈井の井戸で天使と関わり,天使は奈具の村の社にとどまり後に伊勢神宮外宮の豊受大神になられたように元は皆,阿波にあります。
 このことから神武天皇が高島へ行く前に7年間居た安芸の宮(アキノミヤ)は明神(アキノカミ)の大元神社ではないかと推測されます。
 阿波には阿南にも高島がありイザナギが禊ぎ払いした地を「竺紫の日向の橘の小戸」と表現しているので阿南の高島(古代の遺跡がある)の可能性もありますが,こちらは神武東征より古い時代の「竺紫の日向」で高貴な島の意味で高島と名付けたと思われます。
 次号は鳴門市大麻町の古代史に挑戦したいと思います。阿波神社,前方後円墳古墳群,葛城神社,大麻神社,一番札所霊山寺等,古代史情報があれば下記メルアドまでお知らせください。

 syo_1212@ybb.ne.jp        【以上】