テネシーバリーへハイキング  ベル ヒロエ

 こんにちは,ベルファミリーです!
 今月でソフィアは7ヶ月になりました。Babyフードをもりもり食べ,やっと寝返りが出来るようになりました(*^_^*)
 今日は運動がてらに3人でテネシーバリーと言う所へハイキングへ行ってきました。パーフェクトな天気でとっても気持ちが良かったです!!!
 帰り道でソフィアちゃんはスコットの背中が快適だったのかグッスリ寝てしまいました(-_-)zzz



 同窓会の思い出          芝山 靖二

 昨年の夏(H16.8.14阿波踊り3日目)に徳島で同窓会をしました。H12年の4年前からの懸案でした。麗澤瑞浪高校(全国から生徒が集まつた高校)4コースのクラス会でした。
 4年前に幹事役を命令され,その時点から徳島でするならクラスの皆をあの阿波踊りの渦の中へ入れてあげたいと一番に考えました。反対意見も沢山ありました。そんなお盆の忙しい時期に! 旅館も車も一杯の時期に! 参加者が少なくなるよ! それでも8月14日にこだわり,全員参加を目標に,第1回目の通知は1年2ヶ月前に出しました。その年の阿波踊りと間違う人がいました。そんな1年2ヶ月も先の話,生きているかどうか分からないわ!と言う人がいました。遠路はるばる徳島の地まで来てもらうには,その気にさせる期間がいると考えました。事実始め忙しくて参加できないと言っていた人も段々と参加するになってきました。
 僕らのクラス会では始めて夫婦参加のクラス会にしました。当日14日は朝9時に徳島空港に着く人もいて朝7時には家を出ました。2時から始まるアスティ徳島での阿波踊り講習会に間に合う人はアスティに集まってもらい,12時過ぎには大勢集まり,その昼食からクラス会は始まりました。3時過ぎには,ホテル「白水園」(ホテルで徳島に来ました連を作って踊らしてくれる,なかなか予約が取れない)に入ってもらい,7時からのホテルのロビーでの浴衣に着替えての阿波踊りの練習までまたワイワイガヤガヤ一杯やりながらのクラス会。8時には結構楽しかったロビーでの練習も終え,いよいよ本番桟敷へと繰り出していきました。おどろいたのは,県外からの観光客を優先すると言う県観光協会の方針があるとのことで,有名桟敷をあまり待たずに次々に入っていったことです。
 私の思惑どおり皆は心の底から阿波踊りに酔っていました。2時間ほどで日ごろのストレスを取り去った顔をした皆はホテルに帰りお風呂に入り,10時半からは宴会場の居酒屋「六衛門」で夜遅くまで飲み明かしました。
 次の日の朝はあいにくの雨で,雨がやむまで皆でホテルのロビーでコーヒーを飲みながら,雨のやむのを待ちました。やがてのこと雨はあがって,徳島観光に出発です。始め予定していたドイツ館は雨宿りで行けなくなり,一番札所霊山寺から,大鳴門橋の渦の道を観光して,お昼はルネサンスリゾートナルトでした。その間に今回クラスは違ったのですが同級生の三村隆範氏(準備の段階から終わっての写真発送に至るまで本当に良くサポートしていただいた事一生忘れないと思います)と,四国観光の予定を立てられていた先生御夫婦を駅までお見送りし,ルネサンスに二人で帰ってみると,昨日の今日でもう飲むのは飽きてると思っていましたが,またホテルのバーベキューでえらい盛り上がりです。皆若いなー!と感心しました。結局3時過ぎまで又同窓会をし,3年後の再開を約束し,皆本当に楽しかったと言って帰っていきました。

「心機一転」            姫田 和幸

 4月も中旬になると,年度初めの慌ただしさも一段落し,これまでと同じようなリズムを取り戻してきています。
 今年度は,このリズムを元に戻さずに活動のスピードをアップしたいと思っております。せっかくの機会ですから。

阿波の鳴門(六)       野口 一夫

 魏志倭人伝には倭国の事をこの様に記載しています。南へ,トウマ国に至るのに水行20日で5万余戸ばかりある。また南へ,邪馬壹国に至るのに水行10日陸行1月ここが女王の都とするところで,7万余戸ばかりある。日本最古の積石塚が発見された香川県の詫間町は7年前よりトウマ国で町おこしを始めています。そうするとやはり神山あたりが卑弥呼の都があった場所に比定できます。
 また畿内は倭種の国であると書かれています。但し,当時,中国に攻め込まれるのを畏れ,大変気を遣っていたように思われます。それで正確な地理は教えてなかった様に見受けられます。
 邪馬壹国はもとは男子を王(イザナギ命)としたが70〜80年前に倭国は乱れ,何年も互いに攻め合ったので,諸国は共に一女子を立てて王(天照大神)とした。これを卑弥呼という。彼女は恐るべき霊力を現した。婢千人を侍らせただ一人の男子が飲食を給し,女王の言葉を伝えるのに居所(悲願寺に比定)に出入りした。宮殿・物見楼・城柵等は厳重に設けられ,常に兵器を持った人々がこれを守衛していた。その後,卑弥呼が死んだ。
大いに塚(矢野神山)を作りその径は百余歩,殉葬された奴婢は百余人であった。倭では女王の死後男王(初代神武天皇〜7代孝霊天皇)を立てたが,国中が服従せず,互いに殺し合い,このとき千余人が殺されたという。
 そこでまた卑弥呼の宗女である年十三の壹与(倭迹迹日百襲姫命ヤマトトドヒモモソヒメ=三本松の水主神社)を立てて王とし、国中がようや<治まった。
 張政らは、激文をもって,壹与を教えさとした。壹与は,倭の大夫率善中郎将の掖邪拘ら二十人をつかわし,張政らの帰国を送らせた。
 よってかれらは魏の朝廷にいたり,男女の生口三十人を献じ,白珠五千孔・青大勾珠二枚。異文雑錦二十匹を貢進した。