阿波の大神の生命を植え続ける旅
    上一宮大粟神社 宮司 阿部 千二

 先に,この誌面で私は,古代に阿波忌部一族が関東へ移り住み,千葉県の安房国を築いたと書きました。そして,その発展は千葉のみに止まらず,関東,東北いちえんへと次々と広がった足跡が見られるのです。
 阿波の国霊大宜都比売命を祀る上一宮大粟神社は,徳島県名西郡神山町にあり,この地方は古くは大粟荘と呼ばれ,この地の神領民の中心をなすのが阿波粟飯原氏であります。また,千葉安房国,国造りに大きな役割を成した粟飯原氏が後の千葉氏と言われています。
 そこで,少し調べてみると,阿波粟飯原氏の家紋は月星(日月)であり,安房国千葉氏の家紋もまた,月星で同じであります。さらに周辺を調べると,福島県の国府氏,亘理氏,宮城県の国府氏など,さらに山形県にも大宜都比売命を祀る神社の存在など,色々な関連が見受けられます。
 このように,古代では,気の遠くなるような遙かな地とこの阿波徳島とがひとつに結ばれていることが次第にわかってきます。
 私達の先祖は小さな世界に止まらず,大きな視野を心に持ち,さらに未知の地に乗り出し,次々と新たな国造りを行ったバイタリティと創造力に溢れる人々であったと想像されます。
 この力強い生命力を今の私達の尊い教えの糧として注目して行くことが大切であると思うと共に,今後の歴史の検証を進めると様々な事実が浮かんでくると思います。
 私自身浅学で不明の謎の前で苦しんでおりますが,知識と謎の解答をお持ちの方のご教示,また,研究への興味を持たれる多くの人達が増すことを願ってやみません。

大神神社摂社 率川阿波神社
               池田 朋以

 前略

 先日は折角,当社にお越しになられたにもかかわらず,私共の不勉強で十分な説明もできず,申し訳ございませんでした。
 あれからいろいろと率川神社や大神神社にある文献を読み,私なりに勉強いたしました。
 その中で先日お尋ねの率川阿波神社に関する記事を見つけましたので,早速お送りします。
 十分な説明とまではいきませんが,少しばかり「阿波」の名をいただいている理由がおわかりになっていただけましたら幸いです。

草々

 御祭神は「阿波えびすさん」と一般からも親しまれている通り,阿波の国から来られた事代主神である。それについてはこんな社伝がある。
 当社の創祀は,光仁天皇の宝亀年中(七七〇〜七八〇)で藤原是公が夢のお告げによっておまつり申したといわれる。事代主神が阿波にいます時には,布都主神共々まつられていたが,奈良に春日大社が創建され,布都主神はそこに歓請される事になった。その折り,戎さんも一緒に鳴門の海を渡り,この地まで同行してこられたが,布都主神が春日におさまり,後は一人ぼっちとり残されてしまった。しかし,どうしても奈良率川のほとりに住みつきたいと,是公の夢の中で訴えられたのがおまつりの始であるという。是公は早速神地を卜し,率川に近い現在の奈良市西城戸町に社を創建したと伝えている。「延喜式」にも登録される古社で,仁寿二年十一月(八五二)には従五位下を授けたまうと文徳実録にも見えている。
 当初は広大な神域を持ち,少なくとも江戸中期の頃までは社殿も立派であったと想像されるが,火災にも罹り社殿も廃滅に瀕し,境内地も逐次附近の民家に蚕食され,大正初年には一叢の木立の中に小祠を残すのみと記録されている。しかし,近隣の住民は,その小祠の周りの樹木を折損したり,石を踏みつけたりするとたちまちきつい祟りがあったので,誰かなく毎日のおひかりとお供えをつづけていたといわれる。
 大正九年(一九二〇),現在の率川神社境内に遷座し,再興されたのである。もっともこの社は,旧地鎮座の頃より「率川若宮」とも「三枝御子神」ともいわれていた。
 その後は,毎年正月五日,初戎祭が行われている。

             (大神神社史より)


 追記
 宝亀二年(七七一),当時の大納言であった藤原是公の霊夢によって建立と言うことが奈良市史の寺社編にありました。(藤原是公とは不比等のひ孫です)
 また是非ともお近くへお越しの折は,お立ち寄り下さい。お待ちしております。

        率川神社社務所内 池田朋以

阿波の鳴門(七)          野口 一夫

 先日,古事記に書かれる「千引の岩」看板が,那賀町(旧相生町)内山に設置され,その除幕式に参列しました。挨拶を頼まれていたのですが,雨の降る鳴門から上勝を通り,イザナギの辿った道を行ったため,少し遅れ三村さんに代行していただきました。天羽会長も仰っていましたが天気予報は雨で,心配していましたが祭典が終了するまで,きっちりと止んでいました。祭典は蛭子社の宮司さんの祭典報告祝詞に始まり,玉串奉奠,祝詞奏上等りっぱに挙行されました。その他,オカリナ演奏・言霊の歌・阿南二中のブラスバンド演奏等心温まる催しもの,御神酒,桃まんじゅうも振る舞われました。厳粛且つ,賑々しくもあり大変良かったと思います。
 古事記ではイザナギは千引の岩でイザナミと決別し,橘の小戸で禊ぎ払いをしますが,日本書紀には阿波の鳴門(一)に記載しましたが一度ハヤスイノナト,アワノトへ行って,オオゲツヒメが誕生し,オオゲシマ(大毛島)の地名が付き,オオゲから勧請され阿波井神社へ祭られたと説明しました。
 阿波の鳴門(五)で神武東征の案内をした渦彦に触れましたが,神武天皇東征のおり,曲浦で釣りをしていた渦彦が亀に乗り日の御子を迎えに来て,神武軍船に乗り水先案内をしました。そしてハヤスイノナト→曲浦→倭進攻に向かわれます。ハヤスイノナトを堀越海峡に比定すると,つじつまが合います。曲浦とは堀越海峡を中心とした島田島と大毛島の外海で作る湾で亀浦港・お瓶の地名があります。その湾の島田島側には室と言う地名もあります。ハヤスイノナトは曲浦の中心にある堀越海峡で満ち潮・引き潮時には速吸の水門となり,逆潮であれば人力では通る事ができません。鳴門海峡までが阿波と言われていたので,アワノトは鳴門海峡と考えられます。
 約30年前の話になりますが,私の父は鳴門鯛の1本釣りにこだわった漁師で,近畿大学の教授が1本釣りの研究に年に何回か訪れ,研究の手伝いをしていたのを憶えています。当時,私は父に連れられ,この湾で62cmの鯛を釣ったことを思い出し,亀浦・お瓶等の地名も合わせて,この湾を曲浦に比定しました。
 すると全てしっくりと古事記との整合性が見えてきました。