会ったことがないのに 鶴岡 とみ子

 2年前の4月でしたか,ホテルのディナーとコンサートに参加して,会ったこともない方の魂と会いました。
 10年前のその日に亡くなったある方を偲ぶ会にわたしも参加させていただいたのです。その催しが終わった後,家に帰ったら何年ぶりかでどこも痛くないひとときがやってきました。うれしくて友達に電話をかけたくらいです。
 翌日,痛みは戻ってまいりましたが,それから1年かけて少しずつ歩く練習ができるようになり,歩行器から杖に変わりました。
 たくさんの距離は歩けないけど,久しぶりに乗るエスカレータもスーパーの陳列棚がよく見えることも,些細なことすべてに感動の日々でした。
 今年の1月末から,心臓がつらくなって,2月に転倒して鎖骨と肩まわりを痛めて,筋肉が全部落ちてしまったら,また脊椎まわりの炎症まででてきちゃった。だけど,一度ここまでよくなれた自分を体験してましたから,変に落ち込むことはなかったです。また車いすの境遇に直面したら,わたしがやることが何かあるのではないか。身体が動けるようになると,いつのまにか「もっとみんなのように元気に動いて社会の役に立ちたい」とあせり始まりました。
 大きな過ちを犯しました。みんな同じじゃなくても,役に立つにはいろんな方法があるのです。身体がどんな状態であっても,今できることを今表現していくプロセスこそが生きていることなのだ。もっと身体が元気になったらこれをしようって考えでばかりいると,今の自分を否定することになるのです。
 昨夜,またお会いしたことのないあの方の魂を感じました。知らないわたしにまでも,注いでくださる大きな愛。ありがとうございます。大きな方にたくさん出会うことができたわたしは,これからやることがいっぱいです。それがわたしの鶴(熊)の恩返しになるのです。4.5km/hの車いすでちんたら走るより,わたしはもっと超スピードの風を切る! 誓いました。目に見えないいろんな力にも支えられて生きているんだって感じたのです。楽しく限界突破しよう! (^(エ)-)

古事記ツアー    大西 雅子

 8月9日のこと,帰省組を古事記ツアーに連れていきました。連中は多家良町の立岩神社のご神体は見たことがあるので,国府町の気延山にある天石門別八倉比売神社を見学して神山町の立岩神社のご神体を訪ねるコースにしました。
 天石門別八倉比売神社の奥にある五角形の石積みを見てどんな反応をするかな?と見ていましたが,すごい物があるといった様子もなく。
 「なんで,こんな物があるの?」と,たいして関心を示しませんでした。やっぱり誰が見ても後から作った物としか見えないのでしょう。私にもこれにどういう意味があるのかの説明ができません。
 次に神山町にむかいました。
 すると,道の駅もいつものうどん屋も休んでいます。神山町は火曜日が定休日なのだそうです。それならと,神山温泉のホテルのレストランに行きました。このレストランは初めてですが,うどんもありました。とてもおいしかったです。ここなら誰かを案内して来ても喜んでもらえそうです。
 いつものうどん屋が休みだったおかげでいいところがみつかりました。
 おみやげも買って,まずは,上一宮大粟神社にお参りして立岩神社のご神体に案内しました。連中はこのご神体にはすごいすごいの連発です。
 「なぜ,こんなすごいところが観光地になっていないの?」
 「絶対,観光地になるよ」と言います。
 まもなく,そうなるのです。
 次に行った。タジカラヲの塚は説明の看板がないのでまったくわからない。
 「このままではだめだよ。」です。
 確かに,説明の看板がないと,どんなところなのかわからないでしょう。たくさんの人に来てもらうためにも,この徳島県にすんでいる私たちも,ここがどんなにすごい所かを思い出すためにも,説明の看板は是非ほしいものですわ。

アガベ、、この夏の出会い
              松林 幸二郎

 旅の醍醐味の一つに思いがけぬ出会いというものがあります。
 8月上旬,北ドイツのゲセケという村で英国にお住まいの日本人婦人と出会いました。同じ三重県出身で同年代とあって話が弾みましたが,私たちの京都の友人Sさんが京都在住中に話してくれた,第2次大戦中,日本軍に捕虜にされ日本の鉱山や工場で強制労働をした生き残りの英国人元兵士とその家族を日本に受け入れ,和解をすすめている“アガベ”(ギリシャ語で無償の愛)の運動を始めた恵子ホームズさんと知るまでに余り時間はかかりませんでした。
 恵子さんは夫を飛行機事故で失ったあと異国で,2人の息子さんを女手ひとりで育てられてきたという事実にも畏敬の念をいだきましたが,日本軍に虐待され,生き地獄を味わい日本人への憎悪の渦巻く元捕虜の集会に単身でのりこみ,それが契機となってこれまで400人以上の老兵士と遺族を毎年日本に招き,和解をはかってきたいきさつを聞いたときは,私も感動で絶句いたしました。
 恵子さんは故郷の三重県紀和町に里帰りした際,戦時中に紀州鉱山に連行されて働いた約300人の英兵捕虜のうち,異国で無惨な死にあった16人を悼む立派な墓地の存在を知ります。その事実をもと捕虜にしってもらいたいと願い接触をはかると,返ってきたのが拒絶と罵声でした。それにもめげず元捕虜の訪問をつづけ,ついに老兵や家族ら28人の紀和町英兵墓地への墓参りが実現に至ります。そして,老兵たちと遺族が,戦後60年もの間抱いていた日本人への憎悪のこころは癒され,赦しと和解が実現していったわけです。実に,“アガベ”のもつ力を痛切に感じた恵子さんのお話でした。
 なお,恵子さんは日本人女性としては初めて98年に大英第4級勲功章を贈られ,エリザベス女王からもねぎらいの言葉をかけられたそうです。
 8月は広島と長崎に原爆が投下され,200万人の犠牲者を出し終戦を迎えた月ですので,近隣諸国の人々に塗炭の苦しみを負わせ,日本自身も200万人の犠牲者を出し終戦を迎えた月ですので,平和ボケしたといわれる日本人でも否でも応でも“平和”の意味を考えます。私たちが平和のために何か出来る事がないのだろうか,と考える時,ホームズ恵子さんの生き方におおいに学ぶものがあると痛感したこの夏の出会いでした。

此岸より彼岸      小林 金吾

 好む,好まざるは別として,此の世からあの世「彼岸」に行くことを「こばむ」ことはできないものである。また煩悩を超越した悟りの境地に到達できるものでもない。
 彼岸に対して異説もあるが,一般的な判断で,此岸,この世の迷い,悩みの世界から彼岸に到達したら此の世での行為が彼の岸に於いて評価されることを自覚しなければいけない。
 霊となり彼の岸に行けば,過去の己の行為や過ちを悟り自責の念で悩み,苦しみ,それとなく自分の身近の者に知らし訴えようとすることがある。此の世の者は感じ取れないのである。この知らす方法はその霊の存在位置によって異なるもので,例をあげれば,夢とか,家族の行為,ふるまいなどがある。ゆえに此の世の者は感じ悟るべきである。
 歳月の経過とともに時代が変わっていくことは有るが基本的に家庭の宗教的行動は変わるものではない。神々を敬い,ご先祖様を尊ぶ。要するに「敬神崇祖」である。
 各ご家庭に祭祀してある皇大神宮様や氏神様や八百萬の神々様,並びにご先祖さんやご先祖がお世話になって居る菩提寺を尊ぶ行為,作法に従って行うべき信仰で「すなわち」真行(マコトニオコナウ)ものでなければならない。
 だが時代が変わったとかで皇大神宮や氏神を認めず自分が心酔する教えが最高の宗教であると言われる方も居る時代である。
 何時の時代でも宗教は必要であるが指導的な人の考えや感情などの基準が異なるゆえに各自が弁えなければいけない。各人の自覚不足,指導者に頼るのでなく,各自の受け取り方に依って反応されるものである。

                   合掌
             結 果 子 勝 豊